【参加者の声】 正名運動第五軍団の模様 酒井 亨
正名運動の参加者の皆様、お疲れ様です。
主催者発表で15万人(20万人という話もあった)、統一派聯合報の見出しでも10万人、私自身は12万人だったと見ていますが、とりあえず目標の10万人を突破するという大成功を収めました。
事務局の準備・運営にまずさが見られたものの、ここまでの成功を見たのはひとえに台湾正名に対する人々の期待の強さにあると思います。
最近台湾の人気の番組に、MUCHチャンネル「台湾心声」というのがあります。政治評論家として有名な汪[草本]湖(Ong
pun7-ou5)がゲストを招いて台湾語で討論する番組で、14日別の政治評論家が「必ずしも参加者は陳水扁や李登輝や民進党や台聯や独立聯盟を支持してやって来たのではない。みんな台湾が台湾として尊厳を持ちたいという素朴な気持ちで集まった。だからこそ大きな意味があるのだ。
9月6日は、台湾の歴史が変わる転換点となった日と見ていいだろう」と指摘していました。
独立建国聯盟系の人達が核心メンバーとして企画した運動ですが、集まった民衆の台湾独立に関する意識や中身は、ばらばらだったでしょう。しかし、動員だけではなく、あれだけ多くの民衆がどこからともなく集まったのは、ただ一点、台湾は台湾であり、中国にはなりたくないという点だったのです。
「素朴な気持ちで、民衆が多数集まって、時代を変える大きなうねりを起こす」という点では、ちょうど1989年のハンガリー国境開放による東ドイツ国民の脱出に続く一連の東欧自由化の流れを思い出します。あの時も、どこからともなく民衆がわっと出てきて、一つの大きな流れを作って、そして一定の目的が達成されるとまた何もなかったように退いていく、という光景が見られました。
正名運動は、まだまだ目的は達成されていません。そして、目的が達成されていないからこそ、毎年毎年このうねりは大きくなっていくでしょう。
また、そうなるように、とにかく来年の総統選挙での陳水扁再選、511の50万人参加を目指して、がんばりましょう!!!
さて、私は当日は民進党の隊列に加わっていました。
ここの関係者をはじめて日本からの参加者は、ほとんどが海外・日本チームと李登輝友の会で構成される第一軍団(隊列)に加わっていたと思いますが、民進党が組織する第五軍団は、中山サッカー場から総統府前広場まで歩きました。
裏方の手伝いもしていたので、集合時間は一般参加者の11時より早く午前9時に到着。
最初は荷物を運んだり、交通警察に協力して駐車表示ポールを移動したりしていたけども、午前10時からはいよいよ持ち場に着いた。
それは、会場から1ブロックはなれた大通りで地方支部からの動員のバスを待って、点検するという仕事。
ところが、バスがなかなか来ない。結局集中して来たのが11時半過ぎから。サッカー場からの隊列出発予定時間は12時だったのだが、結局一番人数が多かった台南県からのバスは、12時過ぎになって来た。どうやら、朝早くに出てきたが、途中、正名運動に参加するためのバスやら自家用車が多くて、渋滞したため遅れて着いたらしい。
それだけ南部の反応が熱狂的だったことを物語っている。そして、バスが着いたら、バス一台ごとに責任者と運転手の名前と携帯番号を確認して署名して、受付にもって行かせるという役割だった。
同じチームには台湾人男性と、外国育ちで台湾語があまりできない女性がいて、ほとんど私が確認作業をやっていた。なんで日本人がこんなことしてんだろう?とは思いつつも、久しぶりに聞いた南部の庶民の台湾語は、機関銃のようで最初は戸惑いつつも非常にうれしい気分だった。やはり南部の台湾語はイイ!おかげでかなり張り合いのある作業となった。
ちなみに、途中、なぜか台南市支部の人から何度も私の携帯にかかってきた。「横断幕は用意してあるのか?」とか「渋滞で遅れて着くから、受付で待っていて」とか、訳わからん用件だった。(##でも、何で私の携帯にかかってくるのか?わからん)ま、そんなこんなで、12時半にはバスの点呼の持ち場を離れて、デモ隊列に加わった。
といっても、もう一つの役目があった。デモコースとなる特定の交差点に待機して、隊列が無事通過するかを
点検する役目だったのだが、隊列の最前列に追いついたころには、すでに待機すべき場所を通りすぎていた。
民進党の隊列の参加者は、動員の1万5千人に加えて、一般民衆の自発的参加も加えて、3万人は超えていた。とくにルートとなった承徳路は、大龍[山同](トアロンポン、だいりゅうほう)と大稲[土呈](トアティウティア、だいとうてい)という、台湾意識が強い下町に近いところだったので、そこらへんに住んでいる人達が当日加わるという感じであった。人数が多かった証拠に、途中は入った連絡では、先頭が半分くらい進んでも、最後尾はまだまだ出発していないという状態だった。
ちなみに、民進党の隊列のスローガンとアピールは、少数与党であることを配慮して、陳水扁が再三言っている「一辺一国」を基準に独立聯盟が設定したものより「穏健」なものとなった。たとえば、「母親は台湾」「一辺一国」など。そのかわり力を入れていたのが国会改革の国民投票実施。そのための署名活動に力を入れていた。最後の集合地点、総統府前広場でも、外交部正門前にテントを設けて、署名を集めていた。
「穏健化」しているとはいえ、途中、最前列の宣伝カーからは、車上に立った立法委員の何人かが「独立建国」「台湾共和国」を叫ぶ場面もみられたし、デモに加わっている党員および一般参加者の間でも「台湾共和国」の部分には、良い反応が出ていた。与党民進党といえども、草の根の支持者や地方支部(とくに南部)ほど、「独立建国」への情念と意識が根強いのは事実である。そういう意味では、民進党の基層はまだまだ魂は失ってはいないのだ。
隊列の進行速度は、思ったより早くて、先頭は2時半には、総統府前広場に到着した。ちょうどそのときは李登輝氏の発言が始まったころだった。もっとも、私は人探しをしていたので、ろくに李登輝氏の演説は聞いていない。友人のほとんどが参加していたが、あまりに人数が多すぎて、なかなか出くわせなかった。
参加者が15万人にも達していれば、5万人も収容できない総統府前広場に集合というのは、そもそも無理がある設計だといえる。
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おまけ:
その後は、林建良氏らと出くわして、当初行くつもりではなかった李登輝友の会主催の円山ホテルでの晩餐会に参加した。
敬酒(献杯)に来た李登輝氏との台湾語での会話:
(酒井) 「覚えていらっしゃいますか?北社の講演会で台湾語で質問した日本人、酒井です」
(李登輝) (右手をぐいっと掴んで、右手にいた曾文恵女史に)
「おお、そうそう、私より台湾語ができる日本人だ」「で、今、何やっている?」
(酒井) 「民進党の手伝いをしています」
(李登輝) (頬を人差し指で押して)
「民進党を洗脳したらいい (ai3 ka7 Bin5-chin3-tong2 se2-nau2
lah)」
(2003/09/21 の E-Magazine より)
宋貴順さんの正名運動スナップ
「反台独」デモの様子
古市 利雄
私は9月6日の台湾正名運に参加した翌日、台北市内で「台湾正名」に対抗して行なわれた中国派の「保護中華民国」「反台独」デモを見学してきた。動機としては、反対派の意見を聞くことも大切なことであり、それが勉強にもなるからだと思い、攻撃的な台湾の日差しの中、中正紀念堂まで行った。
向かう途中、自転車に二人乗りをした若いカップルが中華民国国旗を振りながら私の横を通り過ぎていったことから、この日が始まった。
デモが始まる1時間前くらいに着いたのだが、中華民国国旗を持った何十人かの人たちと、蒋介石、蒋経国の写真を自転車に貼り付けた変なおじさん(翌日の新聞に写真が掲載されていた)だけが、これから何かあるのではないかと感じさせたが、前日の台湾正名運動とは雲泥の差だった。高校の団体修学旅行生が来てしまえば、この雰囲気さえも消えてしまうような感じだった。
僅か数%の存在ではあるが、台湾の統一派とういのは、@中華人民共和国による統一を望む人、A香港のような一国二制度を望む人、B中華民国による統一を望む人、ではないだろうか。@は中国共産党の工作員のような人間である。Bとなると一部外省人の積年の思いであったりしても実現性に乏しく、「台湾世論における統一派」として大とはなりえない。統一派内での有力意見であるAは現在の香港を見てもらえばわかるように、@との差がなくなってきている。
私は、統一派の人達と言えど台湾に愛着を持っているからこそ正名運動に反対し、一国二制度に賭けてみて台湾経済を発展させより豊かな社会を建設したい、そんな、形は違いこそすれ「台湾愛国者」だと肯定的に解釈していた。しかしそんな甘い考えはもろくも、簡単に崩れ去った。
時間が経つにつれ集まってくる人たちのいでたちは、台湾を含んだ中国大陸の絵の上に「中國人」と書かれたTシャツを着て、赤地の布に黄色の字で「中國統一聯盟」と書かれた幟(のぼり)を掲げていた。あっという間に「大中至正」の門の前は赤色化してしまったのである。国民党の象徴である青色は片隅にも見られない。ここに中華人民共和国による台湾統一は成立した。統一派も既に中国に収斂され、彼らは台湾人ではなくなっていた。完全な中国人だった。
スピーカーから拡大された彼らの言葉が聞こえる。当然のことながら中国語(北京語)である。いわゆる台湾語(ホーロー語)はほとんど聞こえない。この場での中国語は「公用語としての中国語」ではないと感じた。
会場で見かけた彼らのスローガンを上げてみたいと思う。「反台独・救台湾」をまず大きなテーマとし、「我是台湾人也中国人(私は台湾人であり中国人でもある)」「三通直航・台湾繁栄」「和平統一・一中救台湾」、などは反台独デモらしい。しかしこんなスローガンもある。「反失業・要工作(仕事を要求する)・反軍購・要福利」「投靠美日・喪権辱国(アメリカ、日本に頼ることは、主権を失い国を辱める)」「緑色執政・失業保證(緑色は民進党の象徴色)」などは反台独デモとは何も関係がない。さらに「イラク攻撃支持に反対」が聞こえたり、わけがわからない。それは反政府デモである。
そうした「統一派ではないのだが政府への不満を持っている人」をも取り込もうとしていているので、何のためのデモかわからなくなっているのではないかと、私が心配してしまった。
参加者は若い人が比較的多かったのだが、昨日の正名運動の際に参加者ひとりにつき3000元のバイト代が出ているという、日本からはるばる参加した我々にとって失礼極まりないデマが流れていたので、今日は逆に彼らに聞いてみたところ「う〜ん、まぁそんな感じ」という答えが返ってきた。真相はどうなのだろうか。
大安森林公園までのデモ行進が始まり、「反台独」「救台湾」のシュプレヒコールがあがった。私にはそれが中国共産党の「解放同胞」に聞こえてきた。先頭を走る街宣車の後には、台湾青年学生大隊、労働者大隊、退役軍人大隊、華僑大隊などが続いたのだが、ひとつだけ理解できなかったのは「台湾愛国主義政治受難人大隊」というグループだった。それらの人達は中国共産党のスパイで戒厳令下の中、逮捕、投獄された人達であると、翌日、周英明先生が教えてくださった。新聞にも書かれていたのだが、本来その彼らが恨むべき対象は蒋介石と中国国民党であるべきで、釈放される契機となった台湾民主化を成し遂げた李登輝氏や、同じように投獄された陳水扁総統をはじめとする民進党では決してないはずだ。
遠巻きに見ていると、意外と参加者が多いと感じていたのだが、あることに気がついた。行進する際に掲げる幟が人数比から考えても極端に多いのである。幟がたくさん掲げていることによって参加者が多いものだと錯覚をおこしていた。現場での体験と新聞報道を重ね合わせ推測すると、ざっと3千人くらいだと思う。
「中国統一連盟」や「反台独・救台湾」などの赤色の幟ばかりが目立ち、中華民国国旗がほとんど見られなかったのは少し意外だった。午前中に国父記念館で行なわれた大会には、中華民国国旗に溢れ、そちらの写真ばかりが新聞紙上に掲載されたので、一国二制度、中華民国による統一印象だけが残ってしまうが、それだけではない。こ
ちらは中華人民共和国的な色彩が強い。
幟の他にもプラカードが幾つかあったのだが、それらは全て主催者側が用意したものであり、皆がそれぞれ趣向をこらしたものを持ちよって参加した台湾正名運動と比較して、バラエティー性が全く無かった。
参加者も参加者で、スピーカーで騒いでいる街宣車から少し離れると、静かにやる気なくとぼとぼ歩いている。何もわからない観光客のふりをして、彼らに「台湾と中国は違う国なの?同じ国なの?」「あなたは中国人?」と聞いてみたのだが、「同じところもあるけどね。うーん、よくわからない」「私は台湾人だけどね」と、あやふ
やな答えしか返ってこなかった。この人達が意欲を持って主体的に反台独デモに参加しているとは、とても思えない。
総統府前に「反台独」の幟を掲げたタクシーが集まったのだが、数日後に行なわれる中秋節のイベントの準備をしていたために、微妙な感じの集まりとなってしまっていた。残念ながら日本からの統一を主張する参加者はおらず、街道からも声援があがらず、大安森林公園に着くと、参加者の皆さんはそれぞれのバスに戻っていった。やる気のなさと盛り下がり具合から考えて、これで終わりだと思い私も帰ることにした。しかし実はこの後、決起集会みたいのが行なわれたらしいのだが、そうした雰囲気は微塵もなく、新聞報道によると最後には三分の一の1000人まで減っていたとのこと。
正名運動のためだけに参加した日本人もたくさんいたのに、こうした台湾人もいる現実というのは少し悲しい気持ちにもなったが、現場を経験し色々と肌で感じることができたのは意義があったことだった。反台独デモに参加した多くの若き台湾人のぐらついているアイデンティティが、どこに落ち着くのだろうか。このことが恥ずかし
き青春の思い出にでもなってくれれば、台湾正名運動に参加した我々日本人も報われるのだが。
台湾正名運動を機として、台湾の神話は新たな一章に入った。「国生み」の時代から「国造り」の時代へと。台湾の神々はこれから、荒れ狂う神々をなだめ、どのような国を造っていくのであろう。
(2003/09/22 の E-Magazine より)
【参加者の声】正名運動日本人応援団に参加して
佐藤千枝
実はツアーに行く前に友人、会社の人など、片っ端から台湾の国名を聞いてまわったのですが、20名くらいに聞いて知っていたのは一人だけでした。学童疎開経験者世代や台湾に旅行に行ったことのある友人ですら知らなかったのですから、ほとんどの日本人は台湾の地名を知っていても国名を知っている人はごくわずかです。すでに国名が台湾だと思っている人は多いと思いますよ。
6日のホテルから中正紀念堂に歩いているときに参加者の台灣人の人達に何回か「台湾加油(チャヨー)」と声を掛けたら反応を返してくれましたが、台湾語で「加油(ガーユー)」と言ったら反応が返ってきませんでした。私の発音が悪かったのだと思いますが、もしかして台湾語が解らない世代が増えてきているのでしょうか?
行進の参加者は幅広い年齢層でしたね。学生くらいの若者やお年寄りはともかく小さい子供を連れた家族連れが多かったのが印象的でした。中正紀念堂前ではお年よりの方に日本語で「日本から来てくれてありがとう」と言われました。総統府前の道路のステージ前でも年配の方や若い人達からも声を掛けられたり、行政院客家委員の方には名刺をいただき今ステージで行なわれていることや演説内容の日本語訳をしていただいたりしました。
広場前の広い道が人々でいっぱいになり大量の旗がふられて壮観でした。暑さに途中ギブアップしてホテルに戻ろうとして公園と迎賓館の間の道を通ろうとしたのですが、通り抜けるのを諦めるくらいに人でいっぱいでした。ステージ裏の公園入口から抜けようとしたら2・28記念館も公園の中も参加者で溢れ返っていました。15万人の人の多さを実感しましたね。
博物館前で信号待ちをしていると原住民の衣装を着た小父さんから片言で私の名前を呼ばれました。どうやら首から掛けていた貴賓證に書いてあった名前を読んだらしいのですが、彼のそばにいた民族衣装を着たお婆さんに私が日本からの参加者だと説明すると私の手を握り流暢な日本語で「わざわざ遠くからありがとう」と言ってくれました。私は「応援します。頑張りましょう。」としか言えなかったのですが、日本人の参加が意味あるものなのだと実感させてもらいました。
ところで次の日の呂副総統のお話を伺ったとき我々の態度が酷かったのですが呂副総統のお怒りはいかがなものでしょうか?私もクーラーの寒さと貧血と戦いながらお話を聞いていたのでとても誉められた姿勢ではなかったのですが・・・。私は彼女のことは経歴くらいしか知らないので前日の行進に参加できなかった無念さはきっと私の想像以上なのだと思います。
(2003/09/28 の E-Magazine より) |