私のホームページをご覧なさってお便りを下さった皆様有難う!

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From: 橋本 拓哉
To: ktf
Sent: Friday, May 13, 2005 12:41 PM
Subject: エンジンネットワーク 橋本です。

突然のメールにもかかわらず、ご返信いただきましてありがとうございます。

前村さんの近況を伺って、さらにお話を伺いたく、早速、前村さんのほうに連絡を取らせていただこうと思います。企画の検討を進めていく上で、またご協力をお願いすることもあるかもしれませんが、その時は是非宜しくお願い致します。

お手数おかけしまして申し訳ありませんでした。御協力本当に感謝いたします。
  
               株式会社エンジンネットワーク                         
                          橋本 拓哉               
                 

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From: 橋本 拓哉
To: ktf.k15@msa.hinet.net
Cc: fukami@enginenetwork.co.jp ; ultimatemarin@yahoo.co.jp
Sent: Thursday, May 12, 2005 6:28 PM
Subject: 郭徳発様へ

突然のメール失礼致します。
私、株式会社エンジンネットワークの橋本拓哉と申します。

現在、私どもは某キー局で戦後60周年の特別番組を企画しております。

そこで、戦争体験者の方々にお話を伺いたいとリサーチをしておりましたところ、貴殿のホームページ
「平和への祈り」を拝見させていただき、大変関心を抱きました。なかでも、「飛龍特攻の記」を書かれた前村弘さんについて詳しい情報を知りたいと思っております。

お元気でいらっしゃるかどうか、また、戦後はどのようなことをされ、現在は何をなされているかなど、ご存知の範囲内でお教えいただけないでしょうか。

突然の勝手なお願いだと承知しておりますが、何卒宜しくお願い致しします。
               
                株式会社エンジンネットワーク                         
                          橋本 拓哉               
                 

 
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From: 森下偉作矢
To: ktf.k15@msa.hinet.net
Sent: Tuesday, June 29, 2004 12:14 PM
Subject: はじめまして。

郭徳発先生

はじめまして、大阪の森下と申します。南大阪日台交流協会のホームページで郭先生を知りました。
猫鼻頭にある「潮音寺」を拝見し驚きました。先月、思いがけずガランピー岬へ初めて訪れたところでしたのでメールさせて頂きました。添付にその際の旅行記が李登輝友の会のメールマガジンに載りました。
下記に私の原文を掲載致します。

八田興一の命日の5月8日に台南の烏山頭ダムで八田夫妻の御墓の前で祈り、その後すぐに予定に入っていなかった巴士海峡にバスで向かいました。その日は台南泊なので、いつ帰って来れるか判らないんですが、ガイドの・さんも無謀を承知で協力してくれました。
椰子の実やマンゴウの木でいっぱいの、これぞ南国と言う景色を見ながら約二百キロの道のりを運転手さんに急いでもらい夕方前に鵝鑾鼻に到着しました。そこは岬になっていて古い白色の灯台が有り、その横に去年まで蒋介石の銅像が立っていた台座のみが残っていました。海辺まで行こうと言う事でジャングルの中のような遊歩道を通って、珊瑚の岩場にたどり着きました。そこが台湾の最南端で、巴士海峡の南側はフィリピンである事を初めて知りました。沖縄と台湾が近いことは知っていましたが、それよりも近いらしいです。みんな珊瑚の岩場に座って、長原先生が語られました。目の前の巴士海峡は終戦前、民間の輸送船が敵の潜水艦の魚雷攻撃で次々に沈没した「魔の海峡」「輸送船の墓場」と呼ばれていました。その船に乗っておられた方は海に放り出され、木につかまって何十時間経って救助された人もいましたが、力尽きて溺れたり、敵の機銃照射やフカにやられたりしました。その岬には多い日には一度に数百体も打ち揚げられ、数千人の遺体が打ち揚げられた所でした。その方々を地元の方が手厚く葬って下さりました。しかし撃沈せられた二十万人の多くの方は今もなお巴士海峡の底に眠って居られます。予定になかった巴士海峡に無理にでも来た意味が、その事を聞いて初めてわかりました。長原先生のお兄さんもフィリピンで戦死され、形見に残ったのは手帳だけだったそうです。「椰子の実」を歌い、ヨハネ伝12章の「一粒の麦」の箇所を読みしばらくの間亡くなった二十万の方の為に祈りました。日本から遠く離れた南の海で、志半ばで犠牲になられた方への感謝と天のとりなしを乞い、あつい涙が込み上げてきて成りませんでした。

  名も知らぬ遠き島より        
  流れ寄る椰子の実一つ
  故郷の岸をはなれて
  なれはそも波にいく月
  
  もとの樹は 生いや茂れる
  枝はなお かげをやなせる
  われもまた なぎさを枕
  ひとり身の うき寝の旅ぞ
  
  実をとりて 胸にあつれば
  新たなり 流離のうれい
  海の日の 沈むを見れば
  たぎり落つ 異郷の涙
  
  思いやる八重の汐々
  いずれの日にか国に帰らん
  
昭和十一年国民歌謡
島崎藤村 作詞 大中寅二 作曲

森下偉作矢

 

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From: 外丸 繁
To: ktf.k15@msa.hinet.net
Sent: Monday, October 04, 2004 4:59 PM
Subject: 初めまして

初めまして、私は1933年(昭和8年)生まれ東京は下町の浅草です。(現在も浅草です)
昔の家は昭和20年3月9日の空襲で焼けましたが同じ場所に現在居住しています。

西羽さんの「戦争を語り継ごう」に私も銃後の部にも載せさせていただいております。
本日、貴兄のホームページを拝見させていただきましてビックリいたしました。
大変優れた日本語でのHP、懐かしいBGMも同期の桜・異国の丘なども組み込まれ感心しました。日本の政府の力不足と言いますか情けないと言いますか、あれほどの戦争に決死の思いで荷担され日本を守ってくれた方に、なんの補償もない有様には全く怒りを感じます。本当にご苦労様でした。
もしも終戦が2〜3年遅ければ私たちも「俺に続けと兄の声」飛行機に憧れた少年でしたのできっとお国の為と前線に立ったと思います。
スーパーチャージとかフラップ15度、など読ませて頂いてるとたまらない気持ちでいっぱいです。

まとまりのない長メール、お許し下さい。

S.Tomaru
外丸 繁

 

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From: 山本隆夫
To: ktf.k15@msa.hinet.net
Sent: Tuesday, July 06, 2004 8:21 AM
Subject: はじめまして

郭徳発様 はじめまして!

台湾 大好きな日本人です。たまたま偶然に郭徳発様のホームページを発見し今メールを送らせていただきます。私は十数年前 仕事仲間と初めて台湾に行き、その親日さに感動して1年に1-2度行きます。今年は1月は一人で5月は家内と行ってきました。台湾に行くと心が癒されるというか、ほっとします。
戦後の日本人が失ってしまったものがあるような気がします。ちなみに私は1948年生まれです。

郭徳発様は1926年生まれといいますと、今年 78歳 失礼ですが、78歳でこんな すばらしいホームページを作成し 頭も体もまだまだ青年のような方だと想像いたします。これからもお元気で日台親善のため、ご尽力お願いいたします。

話は変わりますが 蕭任僑様の山梨県で起きた事件に対し 日本人の一人として、申し訳ない気持ちで一杯です。台湾の皆様 お許しください。

追伸: 台湾研究ファーラムを通じご遺族の方に私の気持ちとして小額ですが見舞金を送らせてもらいました。

                                                    山本隆夫 
 

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From: 高久直広
To: ktf.k15@msa.hinet.net
Sent: Saturday, April 23, 2005 6:30 PM
Subject: 郭徳発先生へ(日本國陸上自衛隊将校より)

拝啓 一雨毎に夏近づく頃、御清栄のことと存じます。 自分は沖縄にて陸上自衛官を務めます高久直広(たかくなおひろ)と申します。近く臺灣を訪れたく、つきましては郭徳発先生にお会いして、重爆航空士官でありました祖父の縁を偲びたく存じます。本拙文が先生のお手元にて御覧くださること叶い、また、御面会叶いますれば何卒御高配賜りますよう謹んで申し上げます。 先生の御健勝を祈念申し上げます。 敬具 高久直広拝
 

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From: 鈴木 英夫
To: ktf.k15@msa.hinet.net
Sent: Thursday, March 17, 2005 7:42 PM
Subject: 謝御返信

ITの進歩のお陰で、旧軍のことに関して、しかも台湾とメール出来ることを感謝いたします。
台湾には幼少の頃の記憶があります。物心がついたのは馬公です。それから高雄に移り、小学校は台北の西門小学校にあがりました。ですから、台湾には格別の愛着を感じております。数年まえ、訪台して西門小学校と、当時よく遊びに行った新公園に行きました。新公園には228記念館が建てられており、見学をして本当にビックリしました。日本では、あまり228事件のことは語られて居りません。戦後教育の影響でしょうか?台湾に大兄のような、旧日本軍人がおられることは、本当に有難いことです。
先便で立川のことをメールしましたが、当時、若い純真な特甲幹の集団を見ました。よく歌っていたのは末尾が『我等は精鋭 我等は精鋭特甲幹♪』と言うものでした。

ご返事有難う御座います。

  ▽▽▽▽ 鈴木 英夫 ▽▽▽▽
    

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From: 三村 佳弘
To: ktf.k15@msa.hinet.net
Sent: Tuesday, March 29, 2005 11:16 PM
Subject: はじめまして

HP拝見致しました。岡山県倉敷市で公務員をしております三村佳弘と申します。
郭様がそのお年でここまで素晴らしいHPを作成なさっていることに驚きました。
私は2年ほど前に台湾に行きました。旅行です。
わずか4日ほどの滞在でしたが、おとぎ話のような不思議な旅でした。
うまく言えませんが、ある意味においては、日本以上に日本的なものが残っているのです。
台湾の若者とは、お互い片言の英語で何とか会話をしたのですが、何と言うか、阿吽の呼吸と言いますか、とにかく些細な感覚が日本人的なのです。
私への気遣いとか、公衆道徳にも気を遣っているとか。
生活水準も日本と一緒だし、お互い同じ文化圏の民族で、たまたま使用言語が違う…といったような大変不思議な感覚でした。
(まあ、私の北京語も酷すぎましたが。)
さらに驚いたのはご老人達です。日本の年寄りも若いとは思いますが、台北で出会ったお年寄り達、特にお婆さん方は本当にお若くてびっくりしました。
彼女たちは僕が犬に話しかけるのを聞いて、日本語で話しかけてきてくれたのですが、「もう忘れたよ」と言いながらも、日本語は実に達者で流暢。訛りも全然なくて、敬語も完璧で、頭がさがる思いでした。
同郷の後輩のお母さんが台中出身の方なのですが、子供の頃、お母さんの実家に後輩が帰省した際に、お婆さんから「あんたの日本語は汚い」と方言丸出しの喋り方をたしなめられたという話を思い出しました。
いかに台湾の若者が日本人に近い感覚を持っているとは言え、台湾語ともまた異なる甲高い北京語の響きに少々僕も疲れていた頃だったので、お婆さん達の日本語に大変癒されました。
彼女たちは「私たちは姿勢が良いでしょ。日本の教育受けてるからね。今の(台湾の)若い者より元気だよ」「日本は2回行った。富士山も見たよ」と楽しそうに話してくれました。
何と言うか、血の通った関係がそこにあると感じました。言葉・文化の壁がないに等しい訳で、何の忌憚もなくお話ができたことが嬉しかったのです。日本のお年寄り達は戦前のことは余り語りたがりません。戦前の教育について、お年寄りから聞くことはないのです。日本のお年寄りは、どちらかというと戦前の教育を受けていることを恥じているような雰囲気もあるかも知れません。

また烏来民族村にある日本語ペラペラのお婆ちゃんが店番をする屋台風の店では、50〜60歳くらいのご夫婦が片言の日本語で話しかけてきてくださいました。
奥様が「日本、台湾、仲良い、何で、分かる?」と質問してこられました。奥様は日本語の聞き取りは余り得意ではないようでしたので、私は回答するのに少々躊躇しながら、「過日、日本統治台湾」とメモ帳に書いて見せたところ、私の心配をよそに非常に喜んでくださいました。あんた頭が良いねと筆談に驚いてかおっしゃるので、「筆談是苦肉之策」と書いたところ、日本人が漢字に慣れ親しみ血肉としている印象がなかったのか、たいそう喜んでくれて、ここのお代は私が奢るとおっしゃるのです。
余りに恐縮な出来事ですので、店番のお婆ちゃんに「申し訳なので、断って欲しい」と頼むと、「まあ嬉しい。良かったね。ご馳走になっておきなさいな」と言われて、結局ご馳走になりました。
他にもありがたいエピソードはありました。本当に心に染み入る台湾旅行でした。

さて、私は反国家分裂法に大反対です。台湾の現状を見て、国家でないという者は、中国側におもねる原理主義的思考の持ち主としか思えません。残念ながら、我が日本政府は反国家分裂法には反対していますが、基本的には中国におもねる姿勢を崩しておりません。悲しく、切ない話です。
私は李登輝前総統を尊敬申し上げております。20世紀・21世紀のアジアの賢人・聖人だと思っています。
倉敷中央病院に検査入院された際は、前述した後輩とそのお母さん達と一緒に「李登輝先生、歓迎」と書いた横断幕を持ってお迎えにあがりました。そのとき、車から下りた李先生が直ちに僕と握手してくれたのは一生の思い出となるでしょうし、何より僕の人生の励みです。

長々書いてしまいました。書きたいことをただただ羅列したような感じで、少々まとまりのない文面になったかもしれません。
不躾をお許しください。

HPの更新、楽しみにしております。
郭先生、いつまでもお元気でいてくださいませ。


倉敷市 三村佳弘 (昭和50年10月26日生まれ)

 

 
私のホームページをご覧になり、メールを下さったお方、大勢御座いましたが、女性のお方からメールを頂くのは初めてです。うれしく存じます。 (2004年1月22日)

私は兵庫県に住む29歳の女性です。十年ほど前「空のかなたに」という特攻隊の本を読んでからそれまでは関心も何もなかった戦争と言う出来事にとても興味を惹かれるようになりました。私が学校で習った第二次太平洋戦争とは
 『日本が中国や朝鮮のかたに悪い事をした。それでアメリカを中心とした世界の国と戦争になった。結局日本は原爆を落とされ敗戦したがあの戦争は日本が悪かった。』そういう認識を植えつけられた気がします。子供心にも日本は何でそんな悪い事をしたのだろう?もう昔の事だしそういった嫌な事は忘れようという思いがあった気がします。小学生の頃一緒に住んでいた祖母が中国人のことをテレビをみていて悪く言ったことがあります。そのとき私は「ばあちゃんそんな事をいったらダメだよ。あの人たちに悪い事をしたのは日本なんだから!」と学校で習ったままの事を言った事があります。その時の祖母の悲しそうな顔を今でも覚えています。 これまで多くの戦争体験者の方の本やパソコンのホームページなどを見てだいぶん太平洋戦争の真実を知ることが出来るようになりました。そして知れば知るほどこのままの学校教育で良いのか私達若い世代は戦争なんて昔の事。自分達には関係ないと忘れてしまって良いのかという気持ちにさせられます。ですが実際問題私の主人もふくめて戦争の事なんて興味ない。関心を持っている私は変わり者と言う目です。戦争は悪い事でも日本の国の為に一生懸命戦った人たちがいた事を本当に忘れてしまっていいのでしょうか?それもわずか半世紀前のことだというのに・・。その為にも学校で日本が悪かった。戦争は悪だ。と子供達に悪いイメージだけを教えるのではいけないと思います。私個人で何が出来るというわけでは有りませんが自分の子供達には語り聞かせていこうと思っています。
 今実際の戦争体験を聞きたいと思っても私の周りには戦争に参加されてお元気な方が誰もいらっしゃいません。そんな時にホームページ上とはいえいろんな体験を読ませていただけるのは本当にありがたいことだと思っています。これからもお元気で書き続けられてください。それから台湾の方が日本人に好意を持ってくださる事本当にうれしく思います。  それでは本当に長々と申し訳ありませんでした。失礼します

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