幻の満州国皇帝救出作戦 

旧日本軍の台湾人 邱さん

 【台北4日迫田勝敏】五十八年前の夏、一機の軍用機が岐阜県各務原飛行場を飛び立った。日本は敗れ、日本が建国した満州国も崩壊した。軍用機は同国の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の救援機。溥儀は当時のソ連軍に捕まり、脱出できなかったことを自伝「わが半生」に記述しているが、日本軍が救援機を飛ばした史実を知る人は少ない。その作戦に加わった台湾人、邱錦春さん(78)が台北で健在だ。「作戦参加を今も誇りに思っています」という邱さんに敗戦直後の救出作戦を聞いた。

 邱さんは台湾・高雄市の出身。宮崎県の都城実業から栃木・宇都宮の陸軍学校に入り、陸軍第七飛行部隊(岐阜・各務原)に配属、そこで八月十五日の敗戦を迎えた。二日後、邱さんら五人は「満州国皇帝をお迎えに行く」との命令を言い渡された。邱さんは航法士(ナビゲーター)で伍長。翌十八日午前八時、兵舎から飛行場に行くと、「四式重爆(キ−67)」が待機していた。「救出命令に特別な気持ちはなかったが、機翼の日章旗と尾翼の部隊記号がペンキで塗りつぶされていたのは悲しかった。戦死したら、犬死にになる。靖国神社に祭られないのではないかと思った」

 ソウルに向かったが、敗戦のためか、無線連絡がとれない。「肉眼と地図を頼りの飛行だが、幸いに快晴で、順調だった」と振り返る。

 正午すぎにソウルに着陸。関東軍司令部から連絡はない。次に平壌を目指す。ここでも連絡がとれず、軍の招待所に宿泊。翌朝、関東軍からの無線連絡が入った。「満州国皇帝は奉天(現瀋陽)から平壌に行く。そこで即時、離陸できる態勢で待機せよ」。すぐに始動できるよう暖機運転を繰り返したが、その日も翌日も来ない。二十一日昼、緊急連絡。「皇帝は十九日、ソ連軍に逮捕され、平壌に日本軍の救出機が待機していることが知られてしまった。ソ連軍は平壌飛行場攻撃のため南下中。即時離陸せよ」。二十一日夕、各務原に帰還した。

 邱さんは帰国後、専売局勤めなどを経て、貿易会社を経営し、今は悠々自適。敗戦の最大の悲しみは「日本人から外国人になったこと」。今も戦友と親密な交際が続くが、五人のクルーのうち二人は他界し、昨年を最後に戦友会は解散。それが「寂しくてならない」と話した。

 <満州国皇帝> 愛新覚羅溥儀(1906−67年)。清朝最後の皇帝(宣統帝)で、11年の辛亥革命で退位。32(昭和7)年、満州国の建国で皇帝(当初は執政)に就く。終戦後、シベリアに抑留、さらに中国の撫順収容所に戦犯として収容され、その後、釈放された。

(2003年8月4日中日新聞より)

 

2003年8月9日産経新聞朝刊

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