飛龍特攻の記 (特攻出撃に参加して)
浜松第七航空教育隊・飛行第六二戦隊 前村 弘
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まえがき
第一次(東海沖)特攻、沖縄特攻
「桜弾」 の事故等で、当然死ぬべき身であった私が、こうして生きている。 当時、私は飛行第六二戦隊第二中隊の航法員で、一候補生の身であった。私は出撃の都度、敵艦に
「体当たり」 する自分の姿は 「必ず頭から突っ込むのだ」 と予測し、覚悟を決めて出撃したにもかかわらず生きている。
「陸軍航空の鎮魂」
に記載された、特攻戦没者の名簿に加藤幸二郎中尉他三名、金子寅吉曹長他三名が記載してあり、一瞬、背筋が氷る思いで、感慨深く見た事であった。
何故なら、私は岡田曹長外二名と共に前記の方々の間を飛んで、沖縄特攻に出撃していたのである。
私の名前が出ていても当然と言える状況下であったからだ。
こうして生きていることが、共に出撃して戦死された方々を思うにつけ、只々申し訳ない気持ちで一杯である。 |
東海沖特攻に参加して
「空中勤務者は直ちにピスト前に集合」
と通達があったのは、やっとねむりについたばかりの午前十時であった。
戦隊は昭和二十年三月十四日から、跳飛弾攻撃訓練のため、大分海軍飛行場で猛訓練を行っていた。
(事実上体当たりの訓練である。)
三月十八日未明、敵艦載機の襲撃を受け、夫々の機を掩体壕に入れるため宿舎を飛び出したものの間に合わず、爆撃、機銃掃射を受けて二・三機を残すのみで大変な損害を受けた。
宿泊していた兵舎も丸焼けとなり、衣類、私物はことごとく焼失してしまった。
その夜は整備班の方々の徹夜による作業で、やっと飛べる機が三・四機整備が出来、朝まだ暗い五時半頃西筑波に向かって飛び立つたのである。
とうとう我々も眠ることも出来ず、食事も丸一日取れない状態で筑波に帰ったのが朝九時頃であった。
途中名古屋市街は、敵艦載機の空襲によりあちこちで火災を発生していたので、日本海側に迂回してやっと帰還することができた。
突然の 「集合通達」
に 「何事か?」 と眼をこすりながら、ピストにかけつけた時は、新海戦隊長始め、伊藤大尉、大熊大尉、岩本大尉外上級幹部の方々は殆ど見えておられ、何かあわただしい様子であった。
航法担当専任教官、橋本清治見習士官が近寄って来られ、
「前村!初陣だぞ !今回三浦中尉が隊長で出撃する事になった。 航法員として何度か中尉と同乗し呼吸の合った者がよいと言うことで、お前に行って貰う事になった。 いずれ我々も後を追って行く事になる。 先陣を切って立派にやって来い!」 と興奮気味に言われた。
又長浜健二少尉(航法専任将校)からは 「前村!生きて帰って来れるのだから心配せず立派に頑張って来い!」と慰めともとれる言葉で言われたが、黒板には 「攻撃法は特攻とする」 とはっきり書いてあった。
攻撃隊三機と戦果確認機の編成は左記の通りである。
攻撃隊、隊長
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三浦 忠雄
西巻
山口
逸木
今 幸男
前村 弘 |
中尉 (操縦)
軍曹 (操縦)
軍曹 (通信)
軍曹 (機関)
軍曹 (射手)
候補生 (航法) 宇都宮航法学校特幹一期 |
二番機 機長 |
埼下 彰
川村 庄一
植原 彦一
植村 正平
遊佐 幸司
工藤 貢
渡部 |
少尉 (操縦)
曹長
軍曹
軍曹
伍長
伍長
少尉 (操縦) |
三番機 機長 |
外五名 |
(氏名不詳で失礼) |
戦果確認機 |
新海 希典
山田誠之助
堅田 健造
山本 秀郎
小原 柳平
小見忠三郎 |
少佐
曹長 (操縦)
曹長
軍曹
伍長
候補生 (航法) 宇都宮航法学校特幹一期 |
以上の搭乗区分で特別攻撃隊は編成された。 情報によると、敵機動部隊は浜松南方百五十キロ付近を北東に向かって進行中とあった。
攻撃機には夫々八百キロ爆弾を一発のみ装備してあり、爆弾倉に収容出来ないため、内部を改造拡大し、しかもワイヤーにて落ちない様に縛り付けてあった。 機首には、電気信管が取り付けられ、爆弾に配線されて体当たりすることによって爆発する様な仕掛けになっていた。 それでも、前方砲、後方砲の二門だけの武装はしてあった。十三時頃には出発準備も完了して、発進命令を待っている間に隊員は夫々遺書、遺髪を戦友に託したりして、最後の談笑に興じていた。
私も今更遺書でもないと思ったものの、大学ノートの最後の頁に両親宛に書く事は書いた。 「生前の親不孝をお許し下さい。私は立派に国に為に散って行きます。 之が唯一の親孝行と思って、ほめてやって下さい。では出来るだけ私の分まで長生きして下さる様にお願いします」 と
認めて、橋本見習士官に托した事である。
出発は十五時三十分、それまでに充分時間もあり、戦友たちと盃を重ね 「俺も後で行くから獲物は残しておけょ」 と云った様な言葉のやりとりをしていたが同期の小見候補生の様子は少々気がかりではあった。
いかにも沈んだ様子で元気がなく深刻な面持であったので、つい私まで深刻になり、不動の姿勢をとっても顔がゆがんでいる様な錯覚を覚え、やはりコチコチに緊張していたのは事実であった。
一方選ばれた名誉は嬉しく、しかも隊長機の航法は責任重大で、果たして(未熟な私の腕で大丈夫だらうか?)との不安が大きかった。
いざ飛行機に乗り込む刹那、片っ方の足が土を離れる瞬間(之で俺は二度と此の土を踏む事は出来ないのだ!)と感傷的になった事である。
十五時四十分、隊長機を先頭に次々と離陸し飛行場を旋回しつつ三機編隊を組み、戦隊長機の直後についた時は進路を伊豆半島方面にとり、利根川の流れが鮮明に写し出されて後方に見えなくなった頃、ふと我れにかえり、あわてて航法諸元の測定にかかった。
下田付近を通る頃は高度七千メートルの水平飛行を保ち、機長の指示で酸素マスクを着装し機内は静かな緊張した空気に包まれていたが、エンジンの音は 「グワーン、グワーン」
と快調な爆音を立てながら洋上に出た。
僚機を見ると僅かばかり上下動を行いながらピッタリとついている。 三宅島、御蔵島を左に見て通り、予定の地点から変針し目的地に直進の針路をとると、小さな銭洲の島が白波にかこまれ、クッキリと見えていた。
予想到着時刻は十八・00と機長に伝え、前方銃座に移動して、機関砲の操作要領を確認したりで気分的に忙しい。
洋上は僅かばかりの白波が見え、時折綿の様な雲がふわふわと浮かんで、天候は上々に思えた。 目的地まで後十五分位あたりから天候が次第に悪くなり、洋上は雲にさえぎられ見えなくなってきた。
「目的地到着!」 と機長に連絡するや 「よし降下するぞ。 各人は索敵をおこたるな!」 と重々しく伝わって来る。
機は雲の中を突っ込んで降下を始めた。 どれ位降下したであろうか? 私は続けていた航跡図の記入を止めて、前方銃を握りしめ、此のまま体当たりする様な気がした。
「そし敵艦が見えたらバリバリと撃ちまくり頭から突っ込んでやれ!」 と腹這いになった。
なかなか洋上が見えず雲中を尚降下している。 緊張した頭の中に様々な思いがよぎってくる。 お袋の顔、親父の姿、兄弟、姉妹、田舎の景色、勤務先であった会社の建物、友人の顔等々・・・。
ふと我れにかえり(之ではいかん、落ち着いてないから、シャバの事が浮かんで来るのだ! いかんいかん)と妄想を打ち消す様に努力する。 (そうだ何か食べれば落ち着くだろう。)
と持ち込んでいた航空食糧、乾パン、元気食、チョコレート等、手当たり次第口に頬張って機関砲の引き金に神経を集中していた。
突然バリバリと後上砲の今軍曹が撃ちだした。 「敵機来襲っ!」 と機長が怒鳴る。 左前方から黒い影の様な機影が交差して見えなくなった。 (敵戦闘機だな!)
と思った。 (今度来たら撃ち落としてやれ) と身構えて、尚注意を払っていたが、なかなか来ない。 右後方から曳光弾が激しく飛んできては大きく弧を描いては消えて行く。
外は殆ど暗くなって僚機の影も見えない! 「よーしこの下に機動部隊がいるぞ、もっと突っ込むから注意しろよっ!」 と機長の声。 「はいっ」 と云って眼を皿の様にして索敵する。
洋上が見えたが、暗くて視界は三百メートルもあったであろうか?
機長は五百メートル位の高さで飛行を続け、時折旋回をする。 十分も経過したであろうか? 突然パッーと機内が明るくなり、パーンと炸裂音がひびいた。
(しまった!高射砲にやられたっ!) と思ったがエンジンの音は変化なく機は順調に飛び続けている。
「前村!お前どこかケガをしたろう!」 と機長の声。 「いいえ大丈夫です」 「いや何処かケガをした筈だ、もう一度体をさわって見ろ!」。 私は足の先から頭までさわって見たが何処もケガはない。
「大丈夫です」 「よかったなぁー充分気をつけろ!」 と安心された様子。 間もなく 「どうも見つからん、燃料もないから浜松に帰るぞ、針路は何度か?」
と云われる。(シマッタ!航跡図は目標地点から何もやっていない、さぁ困ったぞ)と思ったがとっさに考えた、目標地点から測定すると概略三五八度の方向である。
念のため二度ほど修正して 「三五六度!」 と答えたものの気が気ではない。 (えゝい!何とか陸地に着くだろう)と運を天にまかせた。
三十分近くも飛んだであろうか? 私の心境は落ち着かない。 なかなか陸地が見付からないのだ。 私は航法手としての責任を痛感していた。
しばらくすると、うすぼんやりと陸地らしいものが見えて来た。(あっ!陸地だ、さて何処だろう?)と地図を拡げる。 何かキラキラ光る湖の様なものが見えるではないか!、よく見ると浜名湖だ。
「浜名湖が見えましたっ!」と機長に伝える声は上づっていた。 「よーしっ!浜名湖だなぁ」 と確認された声を聞いてガックリと腰を落とした。(やれやれ操縦士に不安を与えないで本当によかった)と薄氷の思いであっただけに、安心したのだ。
間もなく浜松の飛行場に着いたが、誘導燈も見えず、五・六個の小さなライトが灯いていて、滑走路付近に小型飛行機が点々と散在している。
機長は二・三回低空飛行をしたあげく無事に着陸したが、燃料はゼロを差していた。 しかも爆弾を抱えたままである。 また滑走路付近には 「隼」 が三・四機逆立ちしたり、腰を折ったまま放置してあるのでは
ないか! 思わず(冷やっ!)とした。
機長が二・三回低空飛行されたのは之が為だったのだ、と改めてその慎重さに感服したことであった。
機から降りて驚いた! 逸木軍曹が足にケガをして歩けないと言うのだ。 今軍曹と西巻軍曹が肩を貸して上げやっと歩いていたが、どうやら機長が 「見付からないから浜松に帰る」
と云われたのに、残念に思って口惜しさのあまり、自分の拳銃の引き金を引いて、足の甲をぶち抜いたとのことである。 機長が私がケガをしたと思われたらしい。
その夜私たちは浜松の基地に宿泊したが、機長は天井をギラギラした眼でにらめつけながら 「あそこの機動部隊はいたのだなぁ!」 とつぶやいておられた。
翌日三番機は各務ヶ原に不時着し、操縦士と機関の方が敵弾に撃たれて負傷したとのことである。 二番機崎下少尉外五名と、戦果確認機新海戦隊長以下五名の方々はとうとう帰って来なかった。
筑波に帰還して、戦隊長代理伊藤中隊長に三浦機長が状況報告の申告をされたが、その時 「よく帰って来た。いそいで死ぬばかりが国の為ではない。 この次もあるのだからよく休みなさい!ご苦労」
と温かい目差しで、人間味溢れる言葉をかけられて、目的を果たせなかったと自責の念がいくらか軽くなったのは私ばかりではなかった事であろう。
それにしても新海戦隊長始め崎下少尉以下十名の方々の未帰還と云う衝撃的な事跡は当分私の頭から離れず、気の重い出来事であった。 同期生であった小見候補生もとうとう帰って来なかった。
岡田曹長と沖縄特攻
「体当たりやるかぁ!」
と鋭い悲痛な声が傳声管を通じて伝わって来た。
敵グラマンが高度五十メーター位の高さで上下三機毎の編隊を組み、機銃弾を激しく撃ち捲くりながら我々の直ぐ後に迫った来ていた。
我々は敵艦に特攻体当たりと云う特殊任務を帯びているため武装は全くなく応戦したくとも手も足も出ない。 何とか離脱して敵艦を目標に体当たりしなければならない。
との思いが頭から離れないでいた。 このままでは無駄に海に落とされるだけだ、と一八○度旋回し徳之島に向かって海面すれすれを被弾をさけるためのローリングを行いながら飛行中の時であった。
私はとっさに答えた。 「勿体無い、グラマン一機では!こちらは重爆ですょ」 と。 岡田曹長は何も言わない。奄美大島が見えた頃はグラマンも諦めたのか追って来ない。
(ほっ!)とした途端、何か空しい思いが残ってやり切れない。 たった四・五分前加藤中尉機が撃墜された時の光景が生々しく脳裏に焼き付いている時の機内でのやりとりであったんだ。
昭和二十年四月十九日鹿児島基地を朝七時十八分に出発し、加藤機の後をやっと見える程度に追従し沖縄本島付近の敵空母を求めて、単機毎体当たり敢行のみを考えて勇躍飛行中に時である。
爆弾倉と機内には八○○キロ二発の爆弾を抱え、前方先端に電気信管を突き出した「と号機」には
機長 |
岡田 曹長
三沢 伍長
田中 伍長
前村 候補生 |
(操縦)
(機関)
(通信) 小飛十四期
特幹一期 (私) |
以上、四人が運命を共にする事となり、前夜は加藤機、金子機の同士十二名で鹿屋市内の某料亭で盃を交わし今生の名残と、童貞を捧げさっぱりして思い残すことなく、死地に赴いたのは私ばかりではなかったであろう?。
加藤機はグラマン四機に撃墜され、激しい機銃弾に見舞われ、白煙をパッ!、と出したかと思うと上昇反転し、そのまま海中に真逆さま、岡田曹長はとっさに機を一八○度旋回し、水平飛行に移った時には、敵兵の顔が見える程至近距離で、バリバリと攻撃しながら執拗に食いついて来た。
五分程もたったであろうか、奄美大島が見える頃にたったら敵も諦めたのか、追って来なくなった。 やっと離脱に成功したので機長は直ちに針路を変更し鳥島方向に向かって旋回路をとって目指す沖縄本島付近に向かって前進を続けた。
我々は何が何でも敵艦に体当たりしなければならない。 との悲願にも似た心境であったが、すでに燃料は少なく、目的を果たすまでに飛べるかどうか難しい状態であったのだ。
機長は 「もう一度鹿屋に帰って燃料を補給し出直すが針路は何度か?」 と云われた。
「はい!」 と航跡図を確認し、すばやく計算を始めた。 「次の針路は三十七度! 予想到着時刻は十一時二十三分!」 と答えたが、午前十時頃であったろうか、約一時間半位で鹿屋基地に帰還したのであった。
基地はB−二十九の爆撃寸前であった。 我々が機から降りて直ちに近くの防空壕に入った途端ドドドン! と激しい爆撃が続いた。 間もなくして壕から出て見て驚いた。
機は恰も蜂の巣の様に孔が明き、機は完全に使用不能の状態にまでやられてしまった。 八○○キロ爆弾二発は着装したままであり、よくぞ破裂しなかってものと改めて肝を冷やしたことであった。
翌日整備班長岩本大尉であったか? 迎えに来て下され太刀洗基地に帰還したのである。
金子曹長外三名はとうとう未帰還となり、その時の状況は確かではないが、敵艦に体当たりしたとの情報もあった。
未帰還機の搭乗者は左記の通りである。
「と号機」 機長 |
加藤 幸二郎
吉野 秀男
吉永 卓仔
大橋 愛志 |
中尉 (陸士五十六期)
特操三期 (宇都宮航法学校学生)
軍曹
伍長 |
「桜弾」 機長 |
金子 寅吉
古俣 金一
伊藤 実
近藤 和康 |
曹長
伍長
兵長
候補生 (宇都宮航法学校特幹一期) |
その後岡田曹長は自責の念にかられたのであろうか、すっきりしない毎日であった様だ。 私としてはさしたる後悔の念もなく、只敵艦を補足し得ず、しかも大切な機を失って攻撃の機会もなく、溝田機、古田機等を見送るのみで、切歯扼腕の心情で、数日を過ごしていたことはいつわらざる心境であった。
特攻不成功という事態に一候補生の身であった私にはもちろん、岡田曹長にも上級責任者から之といった叱責の言葉はなかった様に思っているが、機長としては責任者としての立場からこのことがさぞかし頭から離れなかったのではないだろうか。
五月頃と思うが、淀川洋幸曹長を機長として各務ヶ原に 「桜弾」 受領の命令をうけ出張することになった。
機材受領のためか? 先ず松本の飛行場に向けて出発した。 途中南アルプスの山峡を縫い、たまには樹木スレスレの低空を楽しみながらの飛行機の旅はスリル万点で、若い張り切った淀川曹長のこと、まことに鮮やかな腕前であり今日でもはっきりと記憶に新しい。
松本では浅間温泉 「井筒の湯」 で一泊した。 食事の時、女中にさがまれて、翌日は旅館の裏山の頂きから急降下を二・三回繰り返し、物干し台で懸命にハンカチを振っていた光景や、物はついでと、付近の学校めがけての低空飛行は機の一番先端に座席を占めていた私にとっては全く肝を冷やす程で、まことに思い出深い旅だった。
各務ヶ原では岐阜駅前の 「信濃屋旅館」 に宿泊した。 (六二戦隊の常宿であった)
岡田曹長はどうも元気がない。 食事もあまり進まない様子で、宿のおかみさんから 「岡田さんは何となく元気がないね!」 と心配されるし 「スウーちゃん」
という女中さんがいたがこの人も心配そうな顔をのぞき込む様にしては気をつかっていた。 責任のない私と、田中伍長は、本隊から離れた開放感からか、楽しい旅を喜んでいた様だ。
翌日各務ヶ原飛行場は晴天で、風もなく、戦闘基地ではない故か、比較的静かな状態で、たまに飛来するキー四九式重爆(呑龍)が離着陸する程度であった。
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格納庫の前に眼をやると、置かれた 「桜弾」 は異常な姿で、恰も 「魔法使いのセムシの婆さん」 とも思える不気味な姿でおいてあった。
之が我々四人の棺桶になるのかと思うと、ゾーッとしたのは私ばかりではなかったと思う。 色は全体に濃い灰色で、トップも尾部もベニヤ板であり、操縦席の後ろにある筈の後上砲あたりは大きく丸く突起しており、之がセムシ状に見えるのである。何とも不気味な格恰の双発機であった。
私は太刀洗で溝田機、金子機を見てはいたが、いざ自分で乗り込む 「桜弾」 であるかと思うと又印象は違うものである。
四人は試験飛行のため全員乗り込み、他に航空廠の整備員二人も同乗した。
機内はうす暗く、操縦席は一つ、メーター類は半分以下で、機関砲等の武装は皆無で、操縦席のすぐ後ろには、直径一・五メートルのオレンジ色に塗られた腕型の爆弾が凹部を前方にして、重々しくデーンと据え付けてあった。
之が三トンもある 「桜弾」 なのだ。 |
爆弾は液体爆薬で前方三キロ、後方二キロは火の海になると云われた事位しか知識はない、前方には六個の信管が取り付けてあった。
地上滑走して、滑走路の出発点まで来た時である。 操縦桿を押さえ込む様にしてうつむいていた岡田曹長が急に顔を上げて 「前村候補生、田中伍長はおりろ!」
と命令調で云われた。
「試験飛行は初めてですから一緒に行きます」 と答えたが 「どうしても降りろ!」 ときびしい口調が帰って来た。 「はい、それでは爆弾照準眼鏡の点検、受領がありますから格納庫に行きます」
と答えて私と田中伍長は格納庫に向かった。
「桜弾」 は間もなく重々しい離陸をして飛び立って行った。
三・四○分も経ったであろうか、トラックや始動車がけたたましく走って行くので、ふと眼を滑走路方面にやって見て驚いた。 濃灰色の機体がかたむいて横たわっている。
それより七・八十メーター先の滑走路には、オレンジ色をした腕状の爆弾が転がっているではないか? 「しまったっ、墜落だっ、」 と思ったとたん血の気が引いた。直ぐ走って来た始動車に飛び乗り現場に向かったがすでに淀川曹長はかけつけて、三沢伍長を引っ張り出しておられた。
岡田曹長は下半身が殆どエンジンの下になっており上体を出したままグッタリとしていた。 顔は土色生気がなく、軍刀が側に見えたので私は取り上げ、尚曹長を引っ張り出すべく上体に手をかけたが、口唇が僅かに動いた様に見えたもののその時はすでに亡くなっておられた事と思うのである。
三沢伍長は顔面や上体に激しい重傷を負っていた。 幸い呼吸があったので救急車で近くの陸軍病院に運んだものの、その夜息を引き取ってしまった。 同乗していた航空廠の整備員一人は即死し、一人は不思議にも頭に軽傷を負ったのみで助かったと聞いている。
翌日は二人の遺体を火葬にして、遺骨を抱え、旅館に安置しておいたが、我々は悪夢の様な出来事にマンジリともせず、とうとう一睡も出来なかった。
その翌日、淀川曹長は我々二人を加えた六人と機材類を一機しかない 「と号機」 で大刀洗まで空輸しなければららず、さすがベテラン操縦士淀川曹長も、慎重で、我々一人一人の体重までもしらべた上、計算を何度も繰り返しては離陸、飛行計画に余念ななかった様で、その姿はまことに印象深く残っていることである。
当時、若い人間的にも未熟であった私のこと、ただあっさりと(運がよかった)と思っていた様であるが、長じてだんだんと人生経験をつむにつれ、この忌まわしき、強烈な出来事を思い出す度に考えることは、(機長として特攻命令を受け出撃したものの戦果を挙げなかった、そうしてその使命感を絶えず痛感し、なやんでおられたのではないだろうか?)と、又事故の予感もあって、通信、航法と直接試験飛行に関係がない、我々二人に対して
「降りろ」 ととっさに出て来た言葉ではなかったろうか? 若しそうであれば私と田中伍長は、岡田曹長に助けられたのであると、今でもそう信じて疑わないのである。
岡田曹長は背が高く、細身の方で、温和な無口ながらも明るい表情を常にたもたれ、真面目な方であった。出身地がよくわからず多分石川県か富山県の出身と思うが、その操縦技術習得も何処の学校であったかも記憶がない。
戦後四十八年(平成五年)も経過した今日、願わくは誰方かご存知の方でもおられましたらご連絡を戴き、直ぐにでも墓前に額ずき、当時のお礼を充分に申し述べたい気持ちが山々である。
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