持丸さんが歌う  特幹の歌 」 と 「同期の桜
        「別れの一本杉

 

持丸さんご夫婦

 
     

 

    持丸さんが 「おやじの唄」 等から好きな曲を選んで、「MIDI」 伴奏のカラオケCDを自分で作成し、航空便で郵送して下さいました。全部で12曲有りました。その中から 「特幹の歌」 をこのサイトに入れましたら、2003年2月13日、持丸さんからこういうメールが届きました。

   過日は手製のCDの拙い唄をお聞かせした上にプロ級とのお褒めにあずかり、赤面してます。自分独りが聞いて悪い所を直し、そして楽しむ唄で他人様に聞かせる唄ではないことを承知してます。  又本日は予想もしなかった事ですが私の唄った 「特幹の唄」 が、お蔭様で世界中に流行する?兆しがみえて来た事です。 郭さんが其処まで配慮されるとは、全く考えても見ませんでした。 お世辞抜きで有りがたく、感激してます。そうと知ったら 「ロンドン交響楽団」 に伴奏を依頼して 「燕尾服」 を着て唄えば良かったと思ってます。家内に自慢して話をしましたが、「世界中に悪いインフレエンザが流行してるから、其の上食品が腐るバイ菌でも流行ったら,どうしましょう」 と離婚したくなる様な冷ややかな態度でした。??
恐らく内心は、早速隣り近所で、茶飲み話で自慢する事でしょう。
   毎回の事ながら、心から御礼を申し上げます。
    郭 様                                          持丸智明
                                                                                                     2003/02/13
 

此れは北海道室蘭市にお住まいの持丸智明さんから頂いた貴重な文献です。

宇都宮陸軍飛行学校関連の陸軍特別幹部候補生 概略

99,12,25 NO

昭和19年4月 全国各地の普通兵科部隊へ志願入隊。(大半の者は当初より操縦を期待した)浜松 中部97部隊ーーー整備 長野県 宮田久夫
八日市
中部98部隊ーーー同 和歌山県 仲河
兵庫
中部110部隊ーー 通信機 奈良県 立木俊二
磐田
中部129部隊ーー 情報 長野県 山下要造
浜松 中部130部隊ーー 通信 室蘭市 持丸智明
四日市
中部131部隊ーー 気象 大阪市 皿井清治
東部102部隊ーー整備 札幌市 越前利亮
郡山
東部111部隊ーー? 東京都 阿部定博
その他
上記各原隊にて基礎教育が始まるが、間もなく操縦の隊内再募集があり、応募者は班付きや班長に、脅かされつも、東京の(埼玉?)京王閣まで引率され適性検査後、合格者はその場からただちに、上記校「金丸原教育隊」へ転属した。
その数約600名。
内約80名が「大刀洗陸軍飛行学校」よりの転属者があるも別行動で仙台の霞目教育隊へ再転属した。

昭和19年4月下旬? 約520名は直ちに初級滑空機による飛行訓練を受ける。
演習場兵舎(俗に各兵科の多目的原野で廠舎と称す)
3個区隊
第1区隊
区隊長 町田 少尉 持丸智明 山下要造 高橋丈夫 野畑総幸他
第2区隊
竪山 少尉 安西巳代治 一瀬茂 渡辺覚義
第3区隊
田村 少尉 宮田久夫 仲河渉 土屋友春 渡辺幹一他
飛行場兵舎
2個区隊 ??
第4区隊
区隊長 鈴木与八 鈴木真人 共に不詳
第5区隊
杉戸 少尉 越前利亮 皿井清治 関谷敬二 古川隆
4区隊長に付いては、高木少尉と総明少尉が挙げられるも、明確ならず。
昭和19年7月中旬
編成替えにより上記の約3分の2が「下館教育隊」へ転属し残部は、飛行場兵舎に移動して、訓練を続ける。
昭和19年9月12日
突然転属命令 行き先は「外地」とだけ、の説明で二装、但し略帽に帯剣背負い袋、雑嚢、編上靴、巻き脚絆で何の意味か小さな梨を二ケ宛支給される。
翌朝
「下関港」より乗船し「佐世保港」にて船団を組み、一路南下、船名は「長山丸」で幸運の女神も一諸だった。 又「関東軍193」他の部隊も同船した。
経路
佐世保港⇒台湾(高雄)⇒比島(マニラ)⇒ボルネオ島(ミリー港)⇒昭南(ブキテマ兵站)⇒ジャワ島(タンジョンプリオク港)上陸 ⇒陸路にて「タシクマラヤ町」の「神」隊へ到着。第三航空軍第一練習飛行隊第一教育隊。隊長 陸軍少佐「神 清」と聞く。
昭和19年12月14日の事だ。
昭和20年1月初旬
低翼単葉の「二式高等練習機」(キー79)による特攻要員の訓練が開始。
午前は気象学他の学課
午後は飛行実技の二部制
昭和20年2月
資材、用部品不足、及び戦況か一部が、予習中隊へ転属となる。

99,12,25 NO

同年同月 宇飛校金丸原より転属した「下館組」の一部と、奇しくも「大刀洗飛校」の一部転属組 が、一足遅れで、同予習中隊へ転属着隊した。
因みに此のグループは昭和19年12月 三池港よりABC船団にて南下、途中「サンジャック」沖にて、敵機「グラマン」攻撃に遭遇、最悪の事態を越えて着隊した。
同年5月
戦局不利が伝えられる中、特幹全員はバンドン市の「第20野戦航空修理廠」へ転属。此の時点で飛行訓練は中止となる。
昭和20年8月15日 終戦 武装解除 以後食料等は自給自足が原則となり、我々特幹は本部要員を除いて郊外にある「マルガハイユ」農耕地へ転出させられる。
同年10月
市内の治安警備の為、連合軍より武器の貸与を受け、数ケ所の要地に10名宛の任務となり「第18検問所」へ着任。当時の小哨長は「瀬頭貫治少尉」
昭和21年1月
インドネシヤ独立の気運が濃厚となり、各地で「武器寄こせ運動」が勃発して我が第18検問所も夜襲攻撃を受ける。終戦前迄日本軍による戦闘訓練をうけて熟達した「兵補」及び各州の「兵団」「義勇軍」等、約200名と明け方までの地上戦の末、貸与を受けた旋回機銃(Tー4)等の火器にて撃退し、人身共に員数 は確保して無事連合軍へ返納した。
同年3月
復員準備の為か、各所が逐次閉鎖され本部へ集結しては、「タンジョンプリオク」 港へ移動が始まり我々は特別に連合軍輸送機DC10にて空中輸送を受けた。
埠頭倉庫の階上に作業隊宿舎があり、港湾荷役や石炭の積み卸し等の激しい敗戦賠償労働作業が待って居た。
「タンジョンプリオク作業隊」と称す。
同年8月
同じ「バタビヤ」市郊外の「ジャガタラ作業隊」へ移動自給食料がいよいよ欠乏し、背に腹の喩えで、毎日の労働作業先での「窃盗」?が頻繁に行われる様になる。食品は勿論被服、綿布類、洋モク等で発覚すれば当然帰国の道は遙か遠くなり、下手をすれば「死罪」?ともなりかねなかったが、自暴自棄の大和魂??であった。
昭和22年3月
復員乗船 広島県 宇品港上陸。一金参百円也受領。
《ジャガタラ作業隊で一日でも起居を共にした者を「特幹ジャガタラ会」の会員と見なした》
終り。

 

 

宇都宮飛行学校の時、塩原へ行軍し、途中で小休止する

 

ジャワ島タシクマラヤ市の飛行場入り口

 

バンドン市アンデル検問所勤務の勇姿

 

終戦後の持丸智明

 

終戦九ヶ月後、郷からバタビヤに
送られた葉書
(2003・04・13伝送)

 

終戦一年後、郷からジヤガタラに
送られた葉書
(2003・04・13伝送)

俸給、給料未払い証明書 (2003・04・13伝送)

  

持丸さんが 2003年3月29日 伝送して下さいました、作成中の特幹の 「入隊歴」 の一部です。   

              特幹入隊表                          平成151

入  隊

氏 名

所 在

兵 種

転 属

終戦地

復員日

PC

昭和 19-4 持丸智明 浜松、中部130 通信

第三航空軍

バンドン

昭和 22-3
 〃 19-4 小林孝雄 大刀洗、甘木 操縦

   21-4  
 〃 19-8 貞谷孝行 松山中部99 整備

第二航空軍

平房    24-7
 〃 19-6 唐嶋田静 所沢整、八戸 整備

第五航空軍

朝鮮    20-10

 

渡部泰三 浜松中部130          
 〃 19-4 猪股義博 柏、東部102 整備

第四航空軍

比島

昭和 20-12  

  〃 

菱田房男 浜松中部130 通信        

 〃 19-8

松本武夫

 〃 

航空総軍指令部

東京

残務処理

 
 〃 19-4 奥田栄次郎 浜松中部97 整備

第一野戦補

カリジャチ

昭和 22-5

 
 〃 19-4 立木俊二 篠山中部110 通信機

第三航空軍

バンドン

   
 〃 19-4 仲河  渉 八日市中部98    
 〃 19-4 畠山武司 磐田中部129 通信    
 〃 19-4 皿井清治 四日市中部131 通信気象    
 〃 19-4 阿部定博 郡山東部111 整備    

  19-4

前村  弘 浜松第七航空教育隊 航法 飛行第62戦隊 熊本 昭和 20-8
 〃 19-9 郭   徳発 岐阜陸軍航空整備学校 整備

茨城県西筑波

   21-5

 〃 19-4 宮田久夫 浜松中部97 整備 第三航空軍

バンドン

   22-2  
 〃 19-4 呉  正男 水戸航空通信学校長岡教育隊 通信 滑空飛行
第一戦隊

ソ連邦
カザフスタン

   22-  

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