高雄にある 「台湾老兵祈願世界和平紀念公園」 建設用地

許昭栄さん

   台湾老兵の一員であります高雄在住の許昭栄さんが、有志一同と共に3年前(1998年)政府から旗後の中洲にある1千余坪の土地を貰い受け、 「台湾老兵祈願世界和平紀念公園」 の設立を企てましたが、世が不景気のため、政府、民間企業ともに財政困難なので、未だに建造のめぼしがたっていません。

   許さんはこの公園に立つ記念碑を 「第二次世界大戦・国共内戦殞身台湾子弟紀念碑」 と名づけ、日本・中国両外来政権統治の下に起こった台湾兵役史上の悲情を綴ろうと考えています。

 

許昭栄氏のプロフィール:

   1928年台湾の南端、屏東枋寮水底寮で生まれ、別名を 「峰禎」 、獄中での筆名を 「蕉影」 と称した。台湾で生まれながら、皮肉にも中国外来政権から 「中華民国」 のパスポートを取上げられ、 「国際難民」 に陥り、挙句の果て、カナダ国民として収容された台湾人。
   生まれが貧しいので学問が無く、幼い頃 「特別志願兵」 として日本海軍に従軍、戦後は国府の海軍に 「台湾技術員兵」 として強制徴集され、一生苦労惨憺な軍中、獄中の特務の厳重な監禁、海外への逃亡の日月を過ごしたが、その一切の難儀、辱を忍んで、一途に自我の理想を追求してきた男である。
   翻訳書には 「東京物語」 「如何創造栄誉与財富」 「世界民間故事集」 が有り、著作には 「百個白手創業成功的故事」 「台籍老兵的血涙恨」 「知られざる戦後元日本軍、元国府台湾老兵の血涙物語」 「許昭栄言行録・一個 『台湾共和国』 政治受難者的心跡」 「ある台湾共和国夢遊病者の日記」 「全国原国軍台籍老兵曁遺族協会接力絶食静座 『捍衛台湾主権』 活動日誌」 が有り、更に入選作には、 「皇太子殿下のご成婚に期待をかけて」 「父母に見せる顔がない」 「ソ連輸槽船トーブス捕獲記」 「鋼索」 「要活得更有意義」 等が有る。


 

 

 

E-Magazine より転載

許先生 安らかに

from 杉田謙一

許 昭栄先生からいただいたお手紙を書き記しておきます。
 今年は、終戦六十周年にあたり、当方も何らかの形で戦没なさった同胞の霊を慰め、ご冥福を祈る儀式の準備作業で忙しくしています。
 元来、小生の悲願としては一日も早く文物館を設置し、私ども台湾兵にかかわる文物を永久的に
展示し、尚且つその館内の石壁の靖国神社に奉祀なさっている元日本軍台湾兵、そして今ながらも中国の東北(旧満州)華北、及び北朝鮮に中国人民志願兵として無念に亡くなられた台湾兵の名前を彫り上げて歴史の証言として残そうと思って、台湾政府に呼びかけましたところ、なかなか同調して予算を組んでくれません。折角の六十周年もむなしく見流すつらい思いを思わざるを得ません。
ご存知の通り、台湾の情勢は益々悪化し、政府としても頭を抱えて悩んでいるようですから、過去の戦争の歴史などに関心をもってくるはずはないとあきらめております。
 でも良識と、息を吐いている限り悲願を成し遂げたい志は変わりません。努力し続けていくつもりです。ですから今後とも宜しくお願いします。益々暑くなりましたから、皆様ご自愛なされますようお祈り申し上げます。

許先生には台湾慰霊の際にお世話になりました。3年前の私信ですが先生のお気持ちを拝察する意義深い御文章です。心からお悼み申し上げます。申し訳なくて。

(2008.05.22 22:46:15)

許先生の御霊に捧ぐ
国のため赤々燃やすりっぷんちぇんしん わが身に代えてと旅立てる大人
わが国にすでになき魂 奮い起こし 悲願に往けり特攻の人
ますらをの哀しき命ささげつつ
  靖国の道に大人はや往けり
台湾に息吐きおる限り靖国成すと 祈り祈りつ命かなしも
 

 

 

台湾烈士許昭榮先生の生涯

                 石戸谷 慎吉

 許昭榮烈士は昭和3年11月13日、当時の高雄州潮州郡枋寮庄水寮で生まれました。12才の時に御尊父が逝去し、枋寮公学校を一時休学し牛飼として働きましたが、授業料が免除され、復学し、昭和15年に同校を卒業しました。この時、昭和15年、皇紀2600年で、乃木大将の枋寮上陸記念式典に参加したのを鮮明に覚えていると語っていました。卒業後は台南の薬局で働いていました。

 昭和19年、16才で帝国海軍特別志願兵第2期に応募し、20倍以上の難関を突破し、合格者2000名の一人に選ばれました。翌年海軍第112期「飛行整備科」終了後、第61海軍航空廠新竹分廠に配属され、新竹航空隊の沖縄特攻の「桜花」の出撃整備に従事しました。日本の敗戦後は帰郷し鉄工所に勤務していました。一時期、東港分廠にも派遣されました。

昭和22年、20才の時に228事件が勃発しました。国民政府にとっては、旧敵国である日本の旧日本軍兵士、また、軍属に志願した台湾人は危険分子と見られていました。

この時、蒋介石の国民党軍は大陸で国共内戦を戦っており、連戦連敗していました。蒋介石の海軍は賠償により接収した駆逐艦雪風などを主力に建軍途上にありました。艦艇の運用、機関整備など技術要員を必要としていました。また、陸軍は国共内戦の為に多くの訓練された陸兵が必要でした。

許昭榮さんは、機関兵として蒋介石の海軍への入隊を強要されました。従わなければ「清郷(危険分子なので殺害)の対象とする」と脅迫され入隊せざるを得ませんでした。

入隊後、山東省青島の軍官学校での訓練、前記の丹陽の機関兵として、共産軍との内戦に動員されました。

長山島沖で、僚艦の誤射で許昭榮さんは同じ境遇の台湾人の親友を失います。この時の戦死者を長山島に埋葬しようとしたとき、共産軍の急襲を受け、埋葬途中に退却せざるを得なくなります。

沖合に停泊する丹陽を目指した内火艇に乗艇しますが、これが沈没し、海上を漂流しましたが、救助され九死に一生を得て生還しました。

同時期に国民党は旧帝国陸軍特別志願兵、元軍属を募兵します。日本軍より復員しても仕事の見つからない経済状況に有る者、また、甘言につられて募兵に応じた人数は約15000名と推定されます。蒋介石の軍は正確な統計が故意に隠蔽される事があり、正確な人数は不明です。

蒋介石の海軍に徴兵された人数も不明ですが、海軍は自ら海上輸送能力があります。 この海軍に参加した台湾老兵の帰還者数は約400名であり、戦病死した若干名がこれに加わりますが、約15,000名の台湾老兵の圧倒的多数は陸兵でした。

この1万5千人の台湾籍蒋介石軍兵士(台湾老兵)のその後は悲惨の一語に尽きます。国共内戦で戦死された方は約3,000名、残余の一万名以上は殆ど全員が、共産軍の捕虜となります。この共産軍に捕虜となった、台湾老兵は、昭和25年に勃発した朝鮮戦争に共産支那軍の一部として動員されます。この朝鮮戦争で、約6千名が戦死したと推定されます。からくも戦死を免れた台湾老兵を待っていたのは、大陸での文化大革命の狂気でした。

この狂気の権力闘争の期間に反革命分子として迫害虐殺された台湾老兵の数は2000名以上と推定されます。平成4年の段階での許昭榮さんの大陸での調査では、約1000名が大陸で生存したいたとのことです。

許昭榮さんの晩年は、この生存する台湾老兵の台湾帰還運動、働き手を失った台湾老兵の家族の救済、補償要求運動、そして非戦運動に捧げられました。

ともあれ、昭和24年国共内戦に敗北した蒋介石は台湾に逃れ、武装難民政権として白色恐怖支配を打ち立てます。

国共内戦の戦闘より生還した許昭榮さんは蒋介石の海軍から逃れられず、軍務に服していました。その間、米国が供与したフリゲート艦接受要員として昭和23年米国に送られます。さらに昭和30年、2回目のフリゲート艦接受要員として渡米した際、寥文毅を首班とした台湾共和国臨時政府樹立のニュースをニューヨークで知ります。当時は「これこそ台湾の希望の道」と確信したとの事です。

また、寥文毅台湾共和国臨時大統領が「台湾独立運動10年史」を出版したとの事、また、その梗概も報道されていました。

米国より接受したフリゲート艦は、台湾への帰路、ハワイの真珠湾に帰港します。許 昭榮さんは横浜に在住していた叔父の許仕さんに連絡して、ホノルル在住の日系人の協力を得て、この寥文毅著「台湾独立運動10年史」を受取り、密かに台湾に持ち帰ることに成功しました。

この寥文毅著「台湾独立運動10年史」は英文と日文で、台湾に広めるためには北京語に訳す必要があると左営海軍基地で仲間と密議し実行しようとします。。しかし、これが、台東に帰省中の仲間の不注意で露見し、国家反逆罪で徒刑10年の判決を受け緑島送りとなります。

昭和43年刑期を終え出獄し、名古屋が本社の日本のミシン会社に技術課長として就職します。蒋介石の特務機関は許昭榮さんを、政治犯としての監視だけならまだしも、就職、居住の妨害、そして、勤務先に対する賄賂の要求など理不尽な行為を繰り返します。

昭和47年、輸出製品に Made in ROC (中華民国)ではなく、Made in Republic of Taiwan(台湾共和国製)と下請け業者がマーキングしてしまいます。これが元で、逮捕され4ヶ月間拘禁され、拷問を受けますが、証拠不充分で釈放となります。しかし、蒋介石政権の圧迫、勤務先に対する賄賂の要求などが強まり、会社に迷惑を掛けられぬとこの日系ミシン会社を自ら退職します。

その後、台暉貿易会社を設立し、昭和55年に台中の東海大学に53才で入学し、企業管理を学びます。これにより、パスポート収得の資格が得ることが出来、昭和59年渡米して枝豆、ブラックタイガーの市場開拓などに従事します。ロッキー青木氏と会ったのはこの時との事です。

昭和60年、当時、緑島に政治犯として閉じこめられていた施明徳が抗議のハンガーストライキを決行します。ロスアンジェルスに滞在していた許昭榮さんは、この、施明徳支援デモに参加します。この時の影像に映っている許昭榮さんの隣の米国人女性は施明徳氏の奥さんです。

この許昭榮さんの活動を中華民国駐米代表部の特務機関は発見して、許昭榮さんが持っていた、パスポートを無効にします。

許 昭榮さんは無国籍となったので、日本のロスアンジェルス総領事館に保護を求めますが、拒否されます。500ドルで日系人から譲って貰った中古車で米大陸を横断し、ワシントンDCの日本大使館に保護を求めますが、ここでも拒否されます。

当時亡命していた彭明敏博士と会い、彼の助言でカナダに向かいます。カナダ政府は政治難民として即座に受入れてくれました。カナダでは、日系の水産会社に就職することが出来ました。

難民として、カナダでの生活は安定しましたが、脳裏をから離れないのは山東省長山島で僚艦の誤射により戦死した親友の事でした。カナダ政府が難民旅券を発行してくれたので、この旅券で支那大陸山東省を訪問し、親友の遺骨を探し当てます。そして、大陸残留の台湾老兵の現地調査を開始します。

平成4年、李登輝総統の民主化の成功により、ブラックリストがの解除され、台湾に帰国します。

帰国して、カナダ在住の時から、大陸に残され、台湾に帰国できない台湾老兵の帰国支援、大陸の遺骨捜索、大陸の家族の支援などに取り組みます。

同時に高雄市旗津での台湾無名戦士記念碑の建立運動そして戦争と平和祈念公園の設立運動に取り組みます。

しかし、平成19年11月、高雄市議会で親民党の高雄市議会議員王齢嬌などの発議で、同公園を「平和祈念公園」と改称し、同時に823砲戦戦勝記念碑を建てるとの決議が圧倒的多数で通過しました。

許昭榮さんは、これでは、台湾老兵を含む戦争と平和祈念公園としての意義がなくなると、この決議を覆すべく、市当局、市議会と交渉、抗議運動を行いましたが、高雄市議会、高雄市政府は耳を貸さず、遂に5月20日抗議の焼身自決を決行しました。

許昭榮さんの抗議焼身自決は、国民党に洗脳された台湾人が、今度は自分が台湾人の若い世代に洗脳教育を行っている事に対する抗議だったと思います。

民進党や陳水扁前総統に対する批判もあったでしょうが、台湾人の現状に対する警鐘のメッセージだったと考えています。

                                          
                    皇紀2668年 平成20年7月6日
                                          (西暦 2008年)
 

   許昭栄さんー不屈の台湾精神/台湾で戦後から今も続く

                  英霊奉賛日台交流会事務局長
                         福 村 良 治
平成17年6月22日


 日本海軍に雪風と言う駆逐艦があった。多くの激烈なる海戦に参加したが、強運で終戦まで撃沈を免れた艦である。  戦後、中華民国海軍に引き渡され丹陽と命名され、名前が変わる。

 台湾の高雄市に許昭栄さんと言う方がおられる。一時、この丹陽の機関兵をされていた方だ。現在は、バシー海峡で海没した帝国陸海軍将兵20万余を祀る、猫鼻頭の潮音寺の維持活動に現地で粉骨砕身の協力をしてくれている方である。また、高雄市の旗津で、台湾老兵世界平和祈願公園の建設を目指している方である。そして、台湾籍老兵の台湾への帰国、遺族、留守家族に対する補償問題に取り組む全国元国府軍台籍老兵及び遺族協会創会の理事長をしておられる。

 許昭栄さんは、昭和3年(1928年)生まれ、旧大日本帝国海軍台湾特別志願兵で昭和20年(1945年)には特攻機桜花の出撃作業をしていた。

 昭和20年の日本の敗戦により、台湾に進駐した国民党軍は「老人も子供もいる32師団」と言われるように、大陸では、兵役制度ではなく、拉丁と呼ばれる壮丁を拉致して軍に編入す方法が一般的だった。昭和22年28事件以前は、まだ、国民党及び、国民党軍の実体に関しては台湾人の認識は薄かった。主に旧日本陸海軍特別志願兵、高砂義勇隊生還者などが復員して就職を捜していた。国民党軍は、これを好餌を持って詐網し、約15000名を軍に編入して大陸に送り、国共内戦を戦わせた。

 昭和22年(1947)、台湾では228事件が起きる。これにより、国民党、国民党軍の正体を知った台湾人は誰も国民党軍などに応募しなくなった。

 228事件後、許昭栄さんは旧日本海軍軍人故に清郷の対象となる。危険分子として銃殺の候補者である。逃れる路はただ一つ、国民党軍海軍の徴募に応じることであった。当時の国民党海軍は訓練された兵員が絶対的に不足していた。

 228事件後は許昭栄さんのように、脅迫により軍に編入される場合が多く、以前のように、詐網されて国民党軍に入ってしまった人数は少ない。

 許昭栄さんは技術員兵大隊に編入され大陸の青島に送られる。許昭栄さんのように海軍に編入されたのは少数で多くは陸軍であった。

 許昭栄さんは、その後、昭和23年(1948)米国より供与されるフリゲート艦の引き取り回航の為に米国に派遣される。
 この任務を果たした後、許昭栄さんは、激化する国共内戦に投入される。大陸の海港の封鎖作戦中、乗艦していた「太湖」での親友の戦死、埋葬の為に上陸した長山南島で中共軍上陸作戦に遭遇する。からくも逃れた許昭栄さんは、台湾に生還する。しかし、あまりの国民党軍のデタラメさに、怒り心頭に発した許昭栄さんは脱走して高雄に潜むが捕まってしまう。  銃殺か海軍に戻るかの選択を迫られ、結局、復軍する。 その時、乗り組を命じられたのが、前記、雪風改め「丹陽」である。

 許昭栄さんは生還したが、他の台湾兵はその後、どうなったか?    徴募された台湾兵は15000名、先ず国共内戦の錦州会戦、徐州会戦などで1949年までに、多くが戦病死、餓死した。運良く生き延びた者は殆ど全員が中共軍の捕虜になり、 1951年、今度は中共により朝鮮戦争に投入され、中共軍として戦わされ、多くが戦死した。これを生き延びた台湾兵は、文化大革命の時に、旧日本軍人、旧国民党軍人として迫害の対象となり、虐殺を免れた者は、収容所に入れられるか、辺鄙な地方に下放された。この時までに台湾兵は8割は非命に倒れ、大陸各地に約3000名が生き残っていたと推定される。  (1976年頃)

 許昭栄さんの言う「台湾籍老兵」とは台湾人で、詐網若しくは脅迫されて、国共内戦に従軍した方達の事である。多くが、旧日本陸海軍軍人、軍属の方達であった。

 国共内戦に破れた蒋介石は占領した台湾に逃げ込み、台湾の不法占領を続け、恐怖による専制統治を強化する。  日本では昭和20年8月に戦争が終わった。しかし、台湾人は武装難民政権である白色恐怖支那政権と戦い続けなければならなかった。そして、それよりも強力な赤色恐怖支那政権が大陸にはあった。台湾人は、自ら民主化運動で、この白色恐怖支那武装難民政権を克服し現在の台湾統治政権がある。大陸では
赤色恐怖支那専制政権が未だに存続している。

 1954年、許昭栄さんは、また、米国に駆逐艦の引き取り要員として派遣される。翌1955年許昭栄さんは帰国するが、この時、禁書を台湾に持ち込む。実はこの年、東京で台湾共和国臨時政府が成立する。臨時大統領廖文毅博士が著した「台湾独立運動10年史」の英語版を許昭栄さんは、台湾に持ち帰るのである。これが発覚し、反乱罪として懲役10年を宣告され、1958年 緑島(火焼島)に流刑となる。

 10年の刑期を終え、1968年に釈放となるが、政治犯、として厳しい監視の元に置かれる。1972年、輸出商品に「Made in Taiwan, Republic of Taiwan」と表記したとの嫌疑で逮捕されるが4ヶ月の拘留尋問の後、証拠不十分で釈放される。その後は貿易会社を設立して自営する。

 釈放されて12年後の1980年、53歳で東海大学に入学し企業管理を学び、翌年、始めて旅券を入手して、米国の査証を得てロスアンジェルスに渡り、UCLAの経営学講座を受講する。
 1984年 台湾で養殖した黒虎エビの市場開拓の為に渡米して、ベニハナのロッキー青木氏などと知り合う。 1985年 緑島の獄友である施明徳氏(後の民進党党首)が獄中でハンガーストライキに入る。許昭栄さんは、これを支援するロスアンジェルスでのデモに参加する。これが原因で、中華民国政府より旅券を取り消されてしまう。

 許昭栄さんは、日本のロスアンジェルス領事館に救援を求めるが冷たく拒否される。許昭栄さんは、かっては日本国民であり、しかも、日本の防衛のために生命を捧げる覚悟で帝国海軍に志願し勤務したのである。本人が、希望するなら無条件で即時、日本国籍が付与されて当然である。この国際常識は日本の外交官には通じなかった。このような政府、役人がいることは日本人の責任である。日本人の恥である。

 許昭栄さんは、当時、米国で亡命生活をしていた彭明敏博士(現総統府資政、1996年民進党総統候補)に相談し、彼の勧めでカナダに政治亡命を申請して受け入れられる。

 カナダに政治難民として、受け入れられた許昭栄さんはトロントに居を定める。この時に大陸に遺棄された台湾老兵の問題に取り組む始める。その経緯は許昭栄さんが涙と怒りで書いた「知られざる戦後 元日本軍・元国府軍台湾老兵の血涙物語」に詳しい。

 平成3年(1991年)台湾での民主化革命によりブラックリストから許昭栄さんの名前が削除され、台湾に帰国が可能になった。その時、許昭栄さんは「滞留大陸台湾籍老兵要回家」の横断幕を掲げて帰国する。そして、台湾での許昭栄さんの台湾老兵の台湾への帰郷、遺族への補償など、獅子奮迅の活動が始まる。 そして10余年、未だ、解決を見ないこの問題に対する許昭栄さんの不屈の活動は現在も続いている
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