独立第十二飛行中隊戦史

 独立第十二飛行中隊は昭和十六年七月五日滋賀県の八日市で編成を完結、中隊長松田武義中尉以下八十名中島式97型重爆撃機九機が配備される。七月十八日八日市飛行場を出発し南支、広東、佛印、ハノイを経てサイゴン飛行場に至り佛印派遣軍の指揮下に入る。平和進駐が成り八月十六日サイゴンを出発。中支の南京飛行場に至り中支派遣軍の指揮下に入る。中沙作戦及び内地や南方各地への空中作戦任務に従事しこの間に地上砲火の攻撃により山本准尉以下三名が戦死。十一月十五日に南京飛行場を出発し南方異動部隊の作戦に協力し広東、ハノイを経て佛印、プノンペンに至り十二月八日に開戦の大命受く。即日マレー半島のコタパル上陸部隊に併せ空爆に従事しこの間に中田准尉と林軍曹両名が戦死。昭和十七年二月十日にキー五六型ロッキード爆撃機の改造型九機により南方派遣軍のスマトラ島パレンバンを攻撃する落下傘部隊の降下作戦に参加しこの功績により陸軍大臣より感状を授く。三月三日シンガポールのセンバワン飛行場に前進後、テンガー飛行場において南方各地の空中任務に従事。この間第十一飛行中隊と合流して第七飛行部隊が編成された。又空中任務で石川少尉五名が戦死。昭和十八年七月二十二日命によりテンガーを出発。ジャワ島のマラン飛行場に至り南海派遣軍の指揮下に入る。出発にあたり中隊長の松田中尉が病気のため佐藤保太郎中尉が代理して指揮をとり南方各地の空輸に従事し九月八日命によりマランを出発しニューブリテン島のラバウル南飛行場に至り第四航空軍の指揮下に入る。その後各地への空中任務に従事し十一月一日ラバーウルを出発しニューギ二ヤ島のホーランジャ西飛行場に転進し空中任務に従事す。昭和十九年四月五日第四航空軍の転進に伴い中隊の第一次転進が終わったが、第二次以降は敵艦載機の攻撃と地上部隊の上陸により田島少尉以下二十二名の救出が不可能となる。また転進中に原准尉機は攻撃を受け不時着し三名が戦死。なお残置者二十二名中六名復員し残る十六名が自決をしその他の兵士は戦病死をした。四月二十一日転進のためヌンホル島を経てハルマヘラ島のガレラ飛行場に到る。六月二日まで同地で空中任務に従事した。この間に佐藤中隊長は第七飛行部隊の隊長が戦死のあと指揮をとる。六月三日ガレラを出発フィリピンのマニラ飛行場に到る。レイデーなどの前線および後方各地の空中任務に従事。第七飛行部隊長が着任した後内地帰還命令をうけて十一月十九日クラーク飛行場を出発。台湾の嘉義飛行場を経由して二十一日岐阜の各務ヶ原飛行場に到着、終戦まで前線へ人員資材空輸と聯絡等の任務に従事。この間クラークで飛行場の離陸時に米軍の戦闘機に攻撃され根岸少尉以下六名が戦死した。一月二十八日に森少尉が戦死。さらに三月二日の空輸中に原少尉以下四名が戦死。八月十五日終戦の大詔下がる。十七日大本営の命により満州皇帝を日本に迎える任務を受けキー六七型の四式重爆撃機で十八日の朝各務ヶ原飛行場を離陸平壌飛行場に到る。二十一日状況が変り各務ヶ原飛行場に帰還。第十二飛行中隊の任務終る。部隊は解散をし全員復員。 

 平成十四年五月二十七日 

                     戦友会の解散に 谷口平一 記

 


邱 錦春さん、昭和20年4月撮影

 (資料提供:邱 錦春さん 同中隊キー六七の航法員)

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