台北中学五期生同窓会(2)

 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
 
     
     

                  北中五期生の回顧   2010/11/18(魏 廷 魁
 

僕達3学級編成のクラスメートは「昭和(15〜20)年」学年初め毎にメンバーの組替が有り、其れは各クラスの学業総成績を均等する為と諒解し、外に何かの効能が有るとは全然気付きませんでした。

  3クラスで170名程の同窓生は基隆から屏東まで全台湾各地からの兵者共で、台北中学校の校運も僕達の好運も空前絶後でした。学制改革で5年制中学廃止、僕達は最後の五卒、卒業直前の二月に学徒兵として三年生以上は入営させられ、半年間程国土防衛の帝国軍人勤務、終戦後母校は荘名桂師に占領され、泰北中学と改称、その経緯の説明を別院での同窓会で聞かされた。

  母校は曹洞宗が台湾で創校した唯一の ”梵中”、終戦で日系宗教団体も撤退させられ、泰北中学と仏教の ”梵中”縁は打ち切れになった様です。

  当時の教師陣、校舎共にお粗末でしたが、生徒達の成長には不思議と余り影響は無かった。同窓会の盛況から窺い知る限り皆優秀な若者達でした。

  コノ大成果の原因は年毎のメンバー入替えが功を奏して居りました、若し各組のメンバーを入替え無しで通したなら、同窓会は今日迄継続できない。僕ら5期生の入試競争率が十倍位でした。粒が揃って居り、お互い無意識の中に切磋琢磨し合い、成長し続けられたのが功を奏して居ったのであります。

 「蓮麻中に生ずれば助けずして直し」の諺が最良の説明、恩師の指導も重要ですが、良い書籍で自己啓発した方が恩師の教えを上まわるケースも少なくない。 恩師達は生徒の名前さえ覚えてないのに、個別適切な助言をする余裕なんか、丸で無かったと言いたい。

  体育、剣道、柔道の教師は選手級の生徒諸君以外の名前は、荷物に成るから覚えてないのが実情、僕は五年生の剣道時間に佐々木師が点呼で“お前は編入生か”と問われて吃驚した経験が有り、体操で“丙”を簡関章師から頂いて憤慨した者、どうせ落第しても卒業出来る身分だから抗議はしませんでした。

 英語の相沢佛典師、猥褻講義の連発、頗る品位に欠けて居たのに居眠り防止の策だからとして全然問題視しなかったのか? 誠に不思議、木村校長、教頭先生のお耳にも届きそうなのに、何事も無かったのは奇跡です。

 国語の島田正英師、哲学とは“宇宙人生の最高指導原理を探求する学問”と定義を教えられました。 漢文の服部太宗師“偉い人”よりも“立派な人”に成れと教えるべき時代に成ったと諭して居ました、熟練した師長の教授では居眠りはなかった事、記憶は今も尚生々しく懐かしい。

 木村校長が或る夏の午後、英語の代講に来られ、居眠り中の級長に“三好君”と三度も連呼しました。余り深い眠りでしたので、起こすのに隣席の者椅子を揺さぶりました。校長先生は別にお怒りに為らず穏便に済ませました。

 僕達が入学した翌年の師走八日に大東亜聖戦勃発、お蔭で半年の中学生時代を延長され、終戦で台湾は植民地から開放出来ると、喜んだのは束の間、国共内戦の拡大とKMTの敗北で亡命政権が台湾を占領、反抗大陸の基地として史上最長38年に及ぶ戒厳令で、言論封鎖人権剥脱等の束縛、民主国家体制構築の機運を半世紀以上も凍結、蒋父子無き後もKMT残存勢力跋扈で台湾は国際社会の孤児と成り、貧困階級はその日暮らしにさえ苦しむ境遇に追い込まれ、懸命に解脱の道を模索してる姿は60年前と変わらない。

 「骨折り損のクタビレ儲け一甲子」or「辛苦徒労一甲子、又回到従前」と唯又もや騙されたと嘆くばかりです。

     

BACK                HOME