台湾里帰り旅行(1)   岡本光司
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2月28日
 成田、中部、伊丹、福岡の各空港から屏東会の台湾ふるさと帰り旅行に参加して「甲子遅れの卒業式」に出席する私たち昭和20年3月屏東小学校卒業同期生は、台北国際空港に集結。屏東会の一行とともに、先ず、屏東中学の後輩になる台湾政府行政院長(総理大臣)を表敬することになった。途中、会見時間との調整をするため、龍山寺に立ち寄る。
 日本の寺院は専ら冠婚葬祭用だが、日本以外の寺院は、仏教が生活の中に溶け込み、老若を分かたず、敬虔な仏教信者が礼拝に訪れ手向ける線香の煙が、境内を蔽い尽くす。時間調整後約束の時間に、行政院の総理会見室に入り、蘇貞昌閣下にお会いする。その傍らには、ご母堂の蘇清蓮さんが連れ添われる。
 ご母堂は私たちの小学校先輩の姉上と屏東女学校同期生ということで、わざわざ屏東会一行に会うために來られたそうである。ニュアンスの微妙な部分の通訳はご母堂がされる。和やかなうちに会見も終わり、総理大臣から一人ひとり記念品を手渡されて会場を後にする。17時ジャストに台北市内の新装成った板橋新幹線駅から約400キロ南の高雄市左営駅まで90分で走行。乗り心地は、日本の新幹線より揺れが少なく、いつ出発したか判らないくらい静かである。左営駅からは、バスにて約1時間懐かしの物心付いて育った事実上の故郷屏東市内のホテルに到着。台湾人同期生藩茂松君が待ち構え挨拶する間もあらばこそ、私たちを拉致して日本料理店に招待し久闊を叙してくれる。謝々多謝。

 

龍山寺境内

 

 龍山寺正門前にて

 

台湾政府行政院に到着した一行

 

中央向かって右 蘇行政院長(総理大臣)、一人おいて院長のご母堂

 

台湾新幹線に乗り込む一行 台北〜高雄間約400qを90分で走破

 

向かって左端家内その隣が私たちを招待してくれた台湾の同期生藩茂松君

*3月1日
 午前9時にホテルを出発し、先ず、屏東県政府を表敬訪問。知事さんが出張不在で副知事さんが対応され、詳しく県勢の概要を説明下さる。農業と観光が県勢発展の柱のようであった。次に屏東市役所を表敬訪問する。市長さんは、38歳実に若々しく清新な感じのする方で、県政府と同様、農業と観光について熱弁を振るわれた。
 台湾農業は、戦前の砂糖産業中心から年に3回収穫できる米、さらに種類が豊富な熱帯果物、黒豚中心の畜産にシフトしているようであった。市役所を辞し、予定通り、午前11時、私たち卒業式に臨む者を含め今回の台湾里帰り旅行参加全員の懐かしき母校旧屏東尋常高等小学校(現中正国民小学校)の校門を、全校生徒が盛大な拍手で迎えてくれる中をくぐる。
 式場の入り口には、造花の桜で飾られたアーチに、式に参列して私たち卒業生を送る5・6年生が、さらに手を組みアーチを造り「ようこそ先輩」という風情で温かく出迎えてくれる。初めに劉仕彩校長先生の歓迎挨拶があり、次いで厳かな中にも和やかな雰囲気に包まれた式典が始まる。
 卒業生は、校長先生から一人ひとりに卒業証書を手渡され、卒業生を代表して当時の級長で、引き揚げ後東大医学部に学び、国立がんセンターの産婦人科部長を務めがん手術の権威である園田君が、答辞を述べ、卒業生一同涙ぐみながら「仰げば尊し」を精一杯斉唱。在校生の日本語による「蛍の光」に送られて式を終え全員感無量であった。式の前後には、駆けつけたマスコミに取材され、日台親善の素晴らしい出来事として、当日のテレビニュース更に翌日の新聞では、カラー写真入りのトップ記事で大きく報道された。
 午後は、戦争末期、Mitu一家が疎開していた近くの台湾原住民村サンテーモンを観光。夜は、私たち屏東会主催によるレセプションがホテルで開かれ、表敬訪問した県政府、市役所、卒業式を挙行して戴いた学校の関係者更には知人友人等を招待。和やかに、昔話に耽り、日本のカラオケも現地の人に歌われ盛大であった。

 

屏東県政府に到着した一行 

 

屏東県政府の副知事さんへ屏東会会長から記念品を贈呈する

 

広大な台湾製糖本社工場跡地に移転した屏東市役所に到着

 

屏東市長さんから市勢概要の説明を受ける。中央が若い新進気鋭の市長さん

 

母校旧屏東尋常高等小学校到着。歓迎の立て看板

 

卒業式会場の体育館へ入場する

 

初めに劉校長先生の歓迎のご挨拶

 

先ず校長先生から卒業生代表の園田君へ卒業証書が手渡される。

 

その後、順次校長先生から卒業証書が卒業生一人ひとりに手渡される。

 

卒業式も終えホッとして一息入れる卒業生

 

午後から戦争末期Mitu一家の疎開先に近い台湾原住民村を訪ねる

 

台湾原住民村の蕃屋にてHiro

     













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屏東会主催のレセプションで日本の演歌を上手に歌う若き屏東市長さん

 

向かって右 市長さんに負けじと歌うMituの幼馴染み元小学校長の藩茂松君

*3月2日
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 今日は、自由行動日、メル友の郭徳発先輩(大正15年生、元日本陸軍航空特別幹部候補生)が、ホテルへ訪ねてくる。一昨年お会いしたときより若返った気がする。積もる話をした後、郭先輩がホテル近くの屏東公園の近辺に家があった小生(Mitu)夫婦や同期生の岩花君、中家君、高橋君を案内してくれ、住んでいた家を探すことにする。
 最初に、ホテルから一番近い日本時代の市役所の裏にあった岩花君の家(博愛医院)を訪ねたが、岩花君の家に隣接して戦後建てられた市役所が台湾製糖工場跡地に移転したのに伴い、残された市役所を取り壊す工事に併せて岩花君の家も取り壊しの最中であった。次に小生の住んでいた戦前の市役所職員官舎に向かう。1昨年帰屏したときは、奇跡的に残っていたが、どうなっているだろうか。
 途中、屏東公園内の野球大会などが開催されていたグランドの北西寄りに、城門(陽明門)があったが、今も残っているとのことで見に行くことにした。屏東公園は、家に近く我が家の庭みたいなものであった。嘗ての城門は、ガジュマルの大木が覆い被さり、子供達の格好の遊び場であったが、来てみると城門は修理が施され昔より立派な姿で保存されていた。城門より北に5〜6分歩くと、そこには、小生一家が住んでいた市役所の官舎である。訪れてみると、今回も健在であった。
 残念ながら中家君、高橋君の住んでいた家は、全く街並みが変わっており、その痕跡も見出すことが出来ない。屏東公園の西側の通りもすっかり商店が建ち並び昔の面影はない。公園北側の市営プールが残っており、此処で母校の屏東中学へ行くと言う岩花、中家、高橋君と別れ小生夫婦は郭先輩の家を訪れる。郭先輩の家で冷たい飲み物と、冷えた熱帯の果物、レンブとパパイア、パインをご馳走になり、熱帯の陽光に照らされ汗かいた体は、生き返る。
 昨日の卒業式で会った台湾の同期生龔(きょう)伯文さん(台湾大学を卒業して日本の青山学院へ留学、岩手県の盛岡大学教授に招聘される)が、是非自宅に来て欲しいとのことで、郭先輩に案内されると、豪壮なマンションである。奥様は、私達が卒業した小学校の中正国民小学校の教師を44年間務めたという空前絶後の記録の持ち主で人なつこく明るく聡明で美人である。
 お二人とも実に流暢な日本語を話され、意気投合。部屋が沢山空いているので、私達夫婦に、「今後は個人旅行で気が向いたときに、いつでも1ヶ月でも2ヶ月でもショートステイしなさい」と言ってくれる。この後、伯文御夫妻から昼食 、更には郭先輩から戦前日本一の鉄橋として有名な屏東市郊外を流れる台湾第2の大河川、下淡水渓に架かる大鉄橋に案内された後、伯文御夫妻もご一緒で 「日本料亭大将」 に招待され、日本から輸入された高価な鮎や、東港から水揚げされたばかりの新鮮なマグロの刺身等を御馳走になる。今日も又謝々多謝なり。

 

残念ながら取り壊し中の岩花君の家(博愛医院)

 

子供の頃遊んだ屏東公園の城門(陽明門)

 

多少改造されているが残っていた我が家(旧屏東市役所官舎)

 

若松町と大宮町の間、屏東公園西側通り この先の十字路を右折して行くと左側に旧屏東神社宮司宅がある

 

毎日のように泳ぎに行った市営プールが残っている とても懐かしい

 

市営プール東側にあった孔子廟

 

メル友の郭徳発大兄の自宅を訪問、冷たい飲み物とレンブ、パパイアを御馳走になる

 

若松町から里港街道を横切り干城町へ向かう道路広くなり2車線両側に商店が並び昔日の面影はない

 

同期生龔伯文さんの自宅に招かれる 応接間に奥様が案内してくれるが豪邸である

 

伯文さん御夫妻

 

伯文さんの自宅玄関先にて

 

伯文さん御夫妻から昼食に懐かしい屏東料理をご馳走になる此処は1昨年張博雅元内政大臣御夫妻から招待された店である

 

郭大兄から戦前日本一を誇った下淡水渓に架かる長大鉄橋(旧橋)に案内される、実に懐かしい。

 

夜は郭大兄に招待され、伯文さん御夫妻もご一緒で 「日本料理店 大将」 に赴き、東港から水揚げされたばかりの新鮮なマグロの刺身等の御馳走でした。

 

夕食後 「日本料理店 大将」 に隣接するカフエでコーヒーブレーク、サザンクロスが煌めく夜空を涼風が吹き抜ける。

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